第1章 楽器がある日常
今は夏真っ盛り。吹奏楽部の人間にとってはコンクールの季節、勝負の季節だ。蒸し暑い練習室の中でみんな必死になって譜面を隅々までさらっている。小学校から吹奏楽を続けている俺にとってこのコンクール前独特の張り詰めた空気は慣れたものだ。というより、飽きた。
思えばこの四分だらけの課題曲マーチも見飽きたものだ。毎年曲は違えど、課題曲はマーチしかやったことがない。吹部で低音楽器を担当したことがある人間ならわかるだろうが、課題曲のマーチ、バリサクのパートは大体表打ちだらけだ。表打ちなんてかっこよくも派手でもないのに、少しでも曲の拍とズレて吹くと顧問に怒鳴られる。かなーり損な役回りだと思う。まあそれが意外と大切な役割であることには変わりはないが……
メトロノームに合わせてひたすら音を刻むのが退屈になってきたので、俺は隣の席に座って練習していた後輩に愚痴をこぼした。彼の名は本堂 涼太。吹奏楽においてはバリサクと似たような立ち回りになることが多い、バスクラリネットを担当している。
「おい涼太、また俺らは表打ちと伸ばしばっかりだぜ。ホントやってらんねえよな」
「何言ってんですか先輩、僕らがちゃんと練習しとかないと合奏がまとまらないっすよ。音程だって低音楽器の間で合わないし。イヤイヤ言わずに練習しなきゃですよ。」
「お前は真面目ちゃんだねえ」
こんな取り留めのない会話でも気分転換になったぜ。俺は再び練習に戻る。
練習は正直だるい。だが、俺は楽器の演奏自体は大好きなのだ。だからだるい練習も苦にならない。ただみんながやってるからとか、そんな雰囲気に強制されて楽器を吹くのが嫌いなだけで。運動部に入れば良かったなどとは何度も思ったが、そうしなかったのは楽器が大好きだったから。それが理由だ。
ここまで聞けばどこにでもいる吹奏楽部員だと思うだろう。だが、楽器が好きすぎる故に、俺には問題がある。
今日の練習を終えた時、俺は……
「今日もお疲れさん。お前はいつでも綺麗な響きのある音出してくれるなあ」
そう話しかけた。その相手は……そう、まさかの俺の楽器だ。隣にいた涼太が呆れたといった感じで俺に話しかける。
「また楽器と喋ってんすか……」
「別にいーだろ、俺の楽器だし」
「まあ良いですけど……失礼っすけど、そんなんじゃ彼女できませんよ」
「うるさい、黙れ」
そう、はたからみたら気持ち悪いだろうが、俺には楽器に話しかける癖があった。これが俺に女の子が寄ってこない最大の要因なんだろうが……
このバリサクは、俺が中学一年生のときに、一生続けるから、どうか…と親に土下座して頼み込んで買い与えて貰ったものだ。コンクール前の雰囲気に飽きるくらい吹奏楽を続けていると、この楽器にも愛着が芽生えてくる。いつしか俺は楽器を自分の相棒として捉えるようになり、家族のように愛するようになっていった。まあ、当然楽器に話しかけたところで返事が返ってくるはずもないが……。バリサクなんて目立たない微妙な楽器だと思ってるし、アルトとかカッコいいな、なんてよく思う。でも、これは俺の大切な楽器だ。バリサクにしか出せない音がある。今はバリサクになって良かったと思ってる。
モテたいと思って入った吹部で、楽器によって女の子が近寄らない状況を作っているのは滑稽だった。もちろん女の子とは話したいし、彼女も欲しい。でも、この楽器も大好きで大切だったんだ。
俺は練習が終わってみんなが慌ただしく楽器を片付けている練習室の片隅で、楽器に向かってつぶやいた。
「いっそのこと、お前が彼女だったら良かったのになあ……」