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サイがパチンと指を鳴らすとまた景色が学校に変わる。夕焼けの差し込む廊下を三人並んで歩く。
「ねぇ。他の人はどんな願い事をしたの?」
隣で歩くキャトルに聞くと、うーんと人差し指を頬に当てて記憶を辿るように遠い目をする。
「そうね。死んだ恋人に会いたい、好きだった景色を見たい…… でも大体は大切な人にお別れを言いたい、かしら」
「そんなこと出来るの?」
「さっきも言ったでしょ。死夢は現実と繋がってる。厳密には人の夢は繋がっていて夢を辿って逢いに行くって感じ」
「死んだ人が夢に出てくるってやつ?」
キャトルはコクリと頷いた。
「でも誰かの真似をするのはよくないわ。最後の願いなんだもの。何か浮かばない?」
「私は……」
空間が歪み景色が変化する。広い廊下は暗い民家の廊下になり、向こうに少し開いた扉があって光が漏れている。
沙織は黙ったまま扉に向かいノブを握って開ける。中に入るとリビングで、机に女性が突っ伏して眠っていた。彼女の手にはビールの缶が握られていて、周りにも既に空の缶がいくつも転がっている。
「この人は?」
部屋に入らず立ち尽くす沙織の脇から中を伺ったキャトルが、沙織を見上げながら問いかけた。沙織は彼女を一瞥し、何も言わずに部屋の中に入ってゴミ箱を手に取り女性の方に近づく。
「またこんなに呑んで」
沙織が声をかけると女性はピクリと反応し、ゆっくりと顔を上げて沙織に向く。
「体に悪いから呑みすぎちゃダメって言ってるじゃん」
女性の虚ろな視線が段々とハッキリしていき、沙織を映す。その瞬間、カッと目を見開いたかと思うと、手に持っていた缶を沙織に投げつけた。
「うるさい! あんたまで私を責めるっての?! あの男と同じ目で私を見るな! 指図するな!」
酒焼けした声で怒鳴り散らす。缶がカラカラと床に転がった。沙織は「ごめんなさい」と小さく呟きしゃがんで缶を拾う。その間も女性はストレスを吐き出すように沙織へ言葉をぶつけ続けている。
「こいつは?」
サイが沙織の側に立って問いかけた。サイの声が耳に入った瞬間、女性の声がBGMのように遠くなる。
「お母さん」
「ずっとこんななのか?」
「ううん。お父さんと離婚してから。元々癇癪持ちだったけど、お父さんが不倫して別れてからお酒に溺れるようになって、仕事が終わって帰ってきたらお酒飲んで酔ったら私の顔がお父さんに似ててイラつくって暴力をふるわれるようになっちゃった」
沙織は涙が溢れそうなのを奥歯を噛み締めて止め、缶を握り潰す。
そんな彼女に、キャトルはそっと手を重ねて缶を取り上げた。
「家は安心出来る場所じゃなかったのね。学校は?」
景色が歪む。今度は校舎裏。建物と建物の間の他から見にくい場所に女子高生が四人いて、誰かを囲んでいる。彼女らは囲んだ相手を逃がさぬよう退路を塞いで口々に罵倒を浴びせている。
「おいなんで昼に来いって言ったのに来ないんだよ?」
「こんな友達との昼ご飯の約束無視したって分かってる?」
「約束も守れない、行動も遅くて足でまとい、お前生きてる意味なくない?」
嘲笑うように責め立てる。肩越しに見えた向こう側には、俯いて小さく震える沙織がいた。
「あれはさっき貴方のことイジメてた奴らね」
「うん」
「友達って言ってるけど」
「友達なんかじゃないわ。アイツらにとって私はただの便利なペットか何か。ううん道具くらいに思ってたかも」
「いつからこんな?」
「最初は友達、だったと思う。クラスに馴染めてなかった私をグループに入れてくれて、それなりに上手く付き合ってた。だけど、夜寝ちゃってグループの返信をしなかったことがあって、それから無視されるようになって、謝って何でもするから許してって言ったら、パシリとかにされるようになった。そこからはどんどんエスカレートしていって……」
「周りは助けてくれなかったの?」
場所が教室に変わる。机に座る沙織を囲む少女達。明らかにいじめの現場だが、クラスメイトは誰も目を合わせようとしない。
「みんな見て見ぬふり。口出しして自分が標的になるのが嫌なのよ」
「そう……」
キャトルがパチンと指を鳴らす。歪んだ笑みを浮かべるいじめっ子も、クラスメイトも歪んで消え、
今度は沙織の部屋に変わった。
沙織は部屋を見回し、テーブルの上で視線を止める。置かれていたカッターナイフ。沙織は天井を仰いで目を閉じた。
「私、ずっと死にたいと思ってた」
そう言った瞬間、沙織の腕に無数のリストカットの痕が浮かび上がる。たらりと流れた赤い血が床に落ちる。
「でも死ぬのは怖くて、自分を傷つけることしか出来なかった」
涙が頬を伝う。そんな彼女をサイとキャトルは黙ったまま見つめる。
沙織ははぁと息を吐き出し、力が抜けたように頭を垂れた。
「私、自殺したのかな」
ポツリと呟く。沙織の問いにキャトルはゆっくりと首を横に振った。
「いいえ。貴方は自殺したんじゃないわ」
景色が歩道橋のある大通りに、赤いランプを光らしている救急車と何事かと騒然としている人混みへと変わった。
何が起こっているのかは分からない。しかし、沙織の中では何となく答えが出ていた。しかし言葉でハッキリの言ってしまうのが恐ろしくて、その場で立ち尽くしてしまう。
キャトルはそんな沙織の手を取って人混みの方へ向かって歩き出した。沙織は抵抗することなく引かれるまま足を動かす。人混みを避けることなく進んで行ったが、ぶつかることなくすり抜けて救急車の位置まで一直線で辿り着いた。
キャトルが立ち止まったのと合わせて止まる。目の前の光景を沙織は黙って見つめる。
歩道橋の階段の下で心肺蘇生法を行う救急隊員、それをされているのは頭から血を流し意識のない沙織だった。
「雨で濡れてた階段で足を滑らしたの。当たり所が悪かったのね」
キャトルが冷静に言い放つ。
沙織はぶらりと力なく歩いていき、自分自身を見下ろした。
ずっと死にたいと思っていた。
夜目を閉じて、そのまま起きなきゃいいのにと毎晩思って、朝目が覚めて絶望を味わうことを毎日続けた。
「死ぬのって呆気ないんだな……」
16年の人生の最後、なんと呆気ないものだろうか。
「そうね。人の死なんて大体呆気ないものだわ。大団円で人生を終われる人なんてほんのひと握りしかいないのよ」
振り返るとキャトルが寂しそうに微笑みを浮かべている。そんな彼女に、沙織は自分や今まで亡くなった人への弔いの心を感じられた。
「そう、かもね」
「だからこそ。俺たちが最後の願いを叶えるんだ。どんな最後でも、せめて少しでも心残りのないようにな」
サイがそう言いながら指を鳴らす。最初と同じ真っ白な空間に三人だけになった。
「さて。色々と記憶を旅したけど、なにか願いは思いついた?」
サイの隣に移動したキャトルは、手を後ろで組んでコテンと首を傾げた。沙織は二人に向き直って力なく首を振る。
「分からない。死にたいと思ってたから、ある意味今の私は願いを叶えたってことになってるんじゃないかな」
沙織の言葉にキャトルは悲しそうな表情を浮かべ、口を結んだままサイの顔を見上げた。サイは黙ったまま沙織を見つめ、一歩彼女に足踏み出す。
「本当にそれだけだったのか?」
「え?」
「お前の人生、死にたいだけだったのか?」
「それは……」
「誰にも何も残したいと思えるものはなかったのか?」
残したい、もの……
景色が変わった。
夕焼けで橙色に染まったグラウンドで部活動に励む学生。光が差し込む廊下には、雑談に笑いながら帰ろうと鞄を持って歩く人達がいる。その間、窓下に色とりどりの花が咲く花壇があり、その傍で汚れるのも構わず膝をつき雑草を抜く沙織の姿があった。足元には新しい花の種やじょうろが置いてある。
キャトルが花壇のそばまで行き、そっと花を撫でる。
「これ全部沙織が?」
「うん。最初は先生に雑草抜きを頼まれただけだったんだけど、家に帰りたくなかったし、しょうに合ってたみたいで自分で花を買って植えたりなんかもしてたんだ」
「綺麗ね」
「ありがとう。ふふ、この花壇褒められたの初めてだから凄く嬉しいな」
「本当に初めてなのか?」
「え?」
振り返るとサイが反対の方向を見ていた。同じ方向を見ると、オロオロとした様子で立っている少女がいた。
「この子……」
「知ってる子?」
「同じクラスの、確か清水さん。大人しめな子でいつも席で本読んでた。でも話したこともないし、どうして」
沙織は戸惑いながら立ち上がって清水を見つめる。彼女はしばらくモジモジと指と指で遊んでいたが、意を決したように一歩前に出た。
『あ、あの』
清水の呼び掛けに沙織はピクリと肩を揺らして手を止める、しかし振り返ろうとはしない。そんな沙織の態度に怯むように顔を強ばらせたが、震える手を握りしめてまた一歩出る。
『そ、それマリーゴールドの種?』
沙織は振り返らない。
『凄いなこれ全部佐藤さんが育てたの?』
振り返らない。
『私マリーゴールド好きなんだ。家でも育ててるんだよ』
振り返らない。
『えっと……』
清水は遂に言い淀んでしまった。と、沙織が立ち上がった。反応が返ってきたと清水は顔を明るくしたが、沙織は清水の方を見ることなくさっさと道具を持って去っていってしまった。
『あ、明日も来るから! 明日は私も手伝うから!』
沙織の背中に向けて叫んだ。取り残された清水は悲しげに沙織が去っていった方を眺め、しばらくその場に立ち尽くした後、俯きながらその場を後にした。
「あーあ」
一部始終を黙って眺めていたキャトルが、ため息をつく。
「せっかく話しかけてきたのにどうしてあんな態度を?」
「ほんとにね」
沙織は苦笑を浮かべる。
「あの時はただの冷やかしだと思ったんだ。それか罰ゲームかなにかだと思ったの。だから、反応してやるかって思って……」
言葉を切り、先程清水が立っていた場所まで行く。
「ただ話しかけてくれただけだったのね。私が自分で話せるチャンスを潰しちゃってたんだな」
天を仰いで手で顔を覆う。
誰も味方など居ないと思っていたが、本当は手を差し伸べてくれていたのだ。しかし、心の余裕がなかったために、その手を自ら振り払ってしまった。
「これ貴方が死ぬ日の出来事ね。もしかしたら言ってた通り明日来てくれてたかも。ま、もう叶わないけどね」
「そう、ね」
キャトルの言葉は沙織の心にグサリと刺さった。
そう、今気づいたところでもう遅いのだ。もしかしたら清水は本当に次の日も来てくれていたのかもしれない。そうすれば、彼女との関係が変わっていたかも。しかしその全てに『生きていたら』という前置きが必要なのだ。
「あーあ。何もかも手遅れなんだって思い知っちゃった。私のやってきたことぜーんぶ無駄だったんだな」
乾いた笑い声を上げる。そんな沙織にサイは近づいて肩を掴んだ。
「無駄なことなんて何もない」
グイッと花壇の方に沙織を向かせた。気だるげに焦点を合わせると、花壇の前にしゃがみこむ少女が居た。
「しみず、さん?」
清水は沙織と同じように膝をつき、雑草を抜いて水をあげている。その光景に理解が追いつかず沙織はサイを見上げた。
「これは現実の景色だ。お前が死んでから1週間ほど経っている」
「この子、あなたのかわりに花壇の世話をしてくれてるのね。あなたが残したものを残す為に」
沙織の頬を涙が伝った。
たった1日だけ、一瞬だけ交わした会話ともいえない時間。それだけだったのに、清水は沙織亡き後に花壇の世話をしてくれている。沙織のいた証を残してくれている。
「ほら。貴方は死ぬだけの人生じゃなかったでしょ?」
ニッと笑うキャトルに、沙織は泣きじゃくりながら何度も頷いた。
「さて」
キャトルはパチンと手を叩く。
「どう? 願いは見つかった?」
沙織は目を擦りながら深呼吸をして息を整え、サイの方を向いた。サイも真っ直ぐ彼女を見返す。
「決まったわ。私の願いは……」
「うーん。やっと終わったわね」
キャトルが満足げに伸びをする。そんな彼女を横目に、サイはパチンとランプの蓋を閉じた。
「綺麗な炎ね」
「あぁ」
キャトルはランプを覗き込みながら微笑む。
揺らぐ炎は黄色。消える気配のない強い炎を灯している。
「さて、と。帰りますか。多分ジーンより遅いからってどやされるだろうけどね」
「別に競ってるわけじゃねぇしいいだろ」
「もう。そうだけど怒られるのは私もなのよ? ちょっとは労わってくれてもいいんじゃないの?」
「気が向いたらな」
「んもぉ」
頬を膨らませて拗ねるキャトルに、サイは微かに口角を上げながらそっとランプをしまった。
友達になりたかった子がいた。
だけど私は弱くて割ってあの子を助けに入る勇気は持てなくて。ズルズルと時間が過ぎていってしまった。
これじゃダメだ。そう思った時に、あの子が花壇に居るところを見つけた。綺麗に整備された花壇だな、と思っていたけどあの子が手入れしてたのか。
次の日、私は意を決して話しかけようと花壇へ向かった。
正直怖かった。迷惑じゃないかな。邪険にされたらどうしよう。そんな不安を抱えつつ、勇気を振り絞って話しかけた。
「綺麗だね」
あの子からの反応はない。その後何言か話してみたけど、あの子からの返しはなかった。
でも、当たり前か。だって私は今まで見て見ぬふりをしていたんだもの。あの子にとって私はその他大勢の敵の一人なんだ。いきなり話しかけたって心を開いてくれるわけないよね。
あの子は結局私を見ることなく立ち上がって立ち去って行ってしまった。
これで終わっていいの? このままじゃ何も変わらないじゃん。
私はもう一度勇気を振り絞って遠のく背中に叫んだ。
「明日も来るから! 明日は私も手伝うから!」
結局、最後まであの子が私の方を見ることはなかった。
ううん、これからだ。やっと一歩踏み出せたんだ。さっき自分で言ったように、明日も明後日も話しかけ続けよう。
そう思って私はその場を後にした。
だけど、明日が来ることはなかった。
次の日、ホームルームであの子が事故で亡くなったと知らされた。
自殺したんじゃ、なんて噂もあったけど新しい種を蒔いていた日に自殺なんてするなんて考えられなかった。だけど、それを断言出来るほど私はあの子を知らない。知る前にその機会はなくなってしまった。
あの時もっと粘っていれば。そもそももっと前に話しかけてれば。そんな後悔ばかりが心に残る。
次の日、その次の日とあの子が居ない日々が過ぎていく。
クラスではその日こそみんなあの子のことを話していたけど、次の日にはもう話題にすることすらしなくなっていた。見て見ぬふりをしてきた後ろめたさでみんな忘れてしまいたかったんだろう。
だけど、それじゃああの子が居たこと自体が無いことになってしまうんじゃないか。
私はあの子の残した花壇を引き継ぐことにした。
ただの自己満足かもしれないけど、せめてあの子が大切にしていたこれくらいは残したかったから。
その日も、いつもの通り放課後に花壇へ向かった。
新しい種を植えてみようかな。どんな花がいいだろう。そういえば、あの子もあの日マリーゴールドの種を植えてたな。いつ頃咲くんだろう。
「あれ」
辿り着いて見た光景に私は立ち尽くして目を見開いた。
花壇を埋め尽くす黄色いマリーゴールド。
昨日は咲いていなかった。なのに今満開の花が咲いている。
さわりと風が吹き、花たちが踊る。
『ありがとう』
耳元で声が聞こえた。
振り返るけど誰もいない。だけど、今の声が誰なのか、私には分かった。
「どう致しまして。佐藤さん」
私はマリーゴールドをそっと撫でて笑った。