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街頭を進むと、はらりと雪が降り始め街の景色を白へと染めていき、歩く人々の格好も冬の物へと変わっていった。
進むごとに人の数は増えていき、角を曲がると駅前の広場に出た。広場はスーツや私服の人々でごった返している。
「次はここだな」
男は立ち止まり、人混みを指さした。
美玲がその指先の方へ目を向けると、自分が歩いており、隣には先程の店員の男がいる。
『ここまでで大丈夫です。送って下さってありがとうございます』
美玲は立ち止まり男へ笑みを向ける。
『い、いえ。こんな時間に女性一人なんて危ないですから』
そう言ったあと、男は一瞬口を動かそうとしたが口篭って悩むように美玲を見つめた。
『どうしました?』
首を傾げる美玲。男はそんな彼女を見つめながら、よし、と小さく言って手を握った。
『あ、あの。新田さんって今付き合っている人とかいる……のかな?』
言いながら真っ赤になっていく男。同じように美玲の頬も朱色に染まっていく。
『いえ、いませんよ』
はにかみながら答えた美玲の言葉に男の顔が明るくなる。
『ならっ、俺と付き合ってもらえませんか?!』
大きな声に言葉に周りの人達が何事かと振り返る。
注目される中、美玲は頭が垂れるほど腰を折り手を差し出している男を見つめた。
そして、微笑み男の手をとる。
『はい。よろしくお願いします──さん』
名前は周囲の拍手により掻き消された。
幸せそうに笑い合う二人を美玲は呆然と見る。
「幸せそうねぇ」
少女がうっとりとした表情で身体くねらせる。
「ねぇあれは本当に私なの?」
美玲は困惑と疑念の目で少女を見下ろした。少女は身体をくねらせるのを止め、先程とはうってかわって妖艶に微笑む。
「もちろん。これは確かに貴方に起こった出来事よ。思い出せない?」
美玲は落胆する。もしかしたら、この全てがただ自身の夢の中の妄想なのではと期待したが、それは易々と打ち砕かれてしまった。
"私の身に起きたことなのに、なんで何も思い出せないの"
「次に行くか」
混乱する美玲を他所に、男はまた淡々とした態度で先へ進み出す。
そんな彼の態度が癇に障り、美玲は駆け出し男を袖を掴んで止めた。
「ねぇ何でこんなことする必要があるの?! これになんの意味があるのよ!」
叫ぶように怒鳴る美玲。男はゆっくりと振り返る。
「あんたの望みを叶える為だ」
「なんなのよ望みって! そんなこと頼んでないじゃない」
男を睨みつけるが彼の表情は全く変わらない。
「これは俺の仕事だ。だから黙って着いてこい」
手を振り解き男は歩き出した。
「何なのよ」
背を見ながら美玲はまた増えた疑念に頭が混乱する。
"望みってなに? 仕事ってどういう事よ"
身に覚えのない事の連続に、美玲は完全に置いてけぼりになっていた。
そんな彼女の手を少女が握り、見上げて微笑みを向ける。
「これは貴方の為でもあるの。だから行きましょう」
手を引いた彼女の導きのまま前へ進む。
振り返ると、強く抱き合う二人の男女が雪の白に溶けて消えていった。
三人が進んでいくとまた景色が変化していく。雪は溶け、ビルは地面に沈んで川となり、夕日に染まる河川敷へと姿を変えた。
その変化に美玲はもう驚かなかった。慣れもあるが、何よりも憔悴してしまってたのだ。
歩く最中も美玲はずっと自身の記憶を辿っていたが、どうしても店員の男についての記憶が思い出せない。
あのやり取りからして、彼は美玲の恋人であったはずで、他人よりもみつに親交を深めていたはずなのにだ。
もしかしたら、思い出したくもないようなひどい別れ方をしたのかも、そう考えた時、前から見覚えのある男女が歩いてきた。
『今日はありがとう。買い物付き合ってもらったし、色々買ってくれて』
『いや、最近忙しくて相手してやれなかったからお詫びだよ』
先程よりも砕けた話し方に、あれから時間が経ったのだと伺える。
『もう忙しくなくなったの?』
『あぁ目標を達成出来たから』
そう言って男は微笑み、ポケットから小さな箱を出した。
そして蓋を開き、そして美玲へと差し出す。
『え、これって……』
美玲は目を見開き信じられないという顔をする。
『なぁ美玲。俺とずっと一緒にいてくれないか?』
男はそう頬を染め笑う。
夕日に煌めくそれを見つめながら、美玲はクスッと笑った。
『こんな大事なことこのタイミングで言う? もっと他にシュチュエーションがあったでしょ』
『あ、ごめん。今日一日言おう言おうと思ってて慌ててたから』
萎縮しオロオロしだした男に、美玲は溜息をつく。それに男はビクリと肩を震わせる。
『ほんとごめん。こんな俺と一緒になんて美玲は嫌だよな』
そう言い蓋を閉じようとした男に、美玲はまた溜息をついてから笑みを浮かべた。
『そんなこと今更だわ。それでも私はずっと前から──と一緒にいるつもりだったのよ』
美玲は箱を取り上げ指輪を左薬指にはめて男に抱きついた。
『ありがとう』
『こちらこそ。絶対に幸せにするから』
あんな幸せにそうなのに。これは私の過去のはずなのに何で私は彼のこともこの出来事も覚えてていないの?
幸せそうな自分の姿を見つめながら美玲は呆然と立ち尽くした。
胸が苦しくなりぎゅっと手を握りしめる。すると手の中に冷たい感覚が。
手を開き見てみると、そこには先程記憶の自分がはめた指輪が薬指にはまっていた。
銀色の細いリングに小さなダイヤモンドがはまっている。
"そうだ。これはバイトをかけ持ちして必死にあの人が買ってくれた指輪。高くはないけど私にとってはとても大切な物だった"
その考えが浮かんだ瞬間、パッと目の前の景色が変化する。
河川敷から交差点へ。
目の前には人集りができており、皆口々に何かを話している。
『なに、どうしたの?』
『事故だってさ』
『えーマジで?』
『おい誰か救急車呼べよ』
事故、その単語を聞いた瞬間ズキリと頭に痛みが走る。
嫌な予感がして美玲は少女と男を探した。
しかしどこを見ても彼らの姿は見当たらない。
「どこ行ったのよ」
そう悪態をつくが、痛みは消えない。
"あの先に行けば何かが分かるの?"
そう思い美玲は足を人集りに近づく。
一歩一歩、ゆっくりと。
近づくにつれ痛みは増していく。冷や汗が流れ気分が悪い。
それでも彼女は進んだ。
忘れてること、あの人のことが分かるかもしれない、と自分を奮い立たせる。
やっとの思いで人集りの前に出る。
そして広がった光景に目を見開いた。
道路の中央。
ボンネットがひしゃげた車と少し前の方に転がるほぼ原型の留めていないバイク。
車の運転席にはエアバックに埋もれた男。そちらはほぼ無傷のようだ。
しかし車の前に目を移すと、そこには倒れている男が。彼の周りには赤い血の池が出来ている。
誰かが呼んだのか救急車の音がした。
その音は美玲には遠く感じた。
"だって、そんな……"
倒れる男には見覚えがある。
救急隊員が彼に近づき体を仰向けにした。そこでハッキリと彼の顔が見える。
「たく……み」
そう呟いた瞬間、頭の中で記憶が溢れ出した。
拓海はランコントルの店員で美玲は客だった。
美玲は一目見たときから彼が気になって、何度もあの店に通った。
そして拓海も同じで、二人は急速に親交を深め、そして付き合い始めた。
河川敷でのプロポーズは付き合いだして二年目だった。
あの時どれだけ嬉しかったか。美玲にとって人生で一番幸せな瞬間だった。
なのに……
目の前の景色がまるでスライドショーのように流れていく。
病院で顔に布を被せられ横たわる拓海の姿。その脇で泣き崩れる自分自身。
「あ、あぁぁぁ!!」
涙が溢れ、美玲はその場に崩れ落ちた。
"そうだ、そうだよ! 何で私はこんな大切なこと忘れていたの?!"
今まで見てきた男は二年前に死んでしまった美玲の婚約者、山本拓海だったのだ。
「やっと思い出したのね」
いつの間にか現れた少女がしゃがみ込んで美玲に微笑む。
「そう、今まで見てきたのは貴方と婚約者との思い出」
少女は手を伸ばし、美玲の目に溜まる涙を拭った。
「どうして私は忘れてたの?」
「お前は現実に耐えられなくなって自分で記憶を封じたんだ」
少女の後ろに男が現れる。
その言葉で新たに記憶が蘇る。
"そうだ、私拓海がいなくなったことを受け入れられなくてずっとずっと泣き続けていた"
拓海なしの世界なんて生きていけない、そう思ってた。
部屋から一歩も出ず、一日中泣き続け生きることを諦めていた。
しかしある日、美玲の中で拓海に関しての記憶を全て忘れ去ってしまった。
それは自己防衛だったのかもしれない。
その日から美玲は何事もなかったかのように普通の生活を送った。
周りの人たちの心配する言葉に首を傾げ、ずっと仕事を休んでいた理由を思い出せないと呑気な疑問を持ちながら。
二年も生き続けた。
あんなに大好きだったのに。どうして忘れることなんて出来たんだろう。
「ごめんなさい拓海っ」
泣きながら謝罪を口にする美玲。そんな彼女に少女は冷静な言葉を投げるける。
「悲しんでるところ悪いんだけど、貴方はまだ思い出さなければいけないことがあるのよ」
"これ以上何を忘れているというのか"
そう思い顔を上げると、少女と男は横を向いていた。
何かがあるのか、と疑問に思い同じ方向へ目を向ける。
「え……」
景色はいつの間にか交差点に戻っていた。
事故現場や拓海は無くなっていたが、変わりに道路の向こう側に人集りが。
人々が見つめる先には、電信柱に頭をのめり込ましている車、窓ガラスが割れているお店、道端に血を流し倒れる何人もの人、その中の一人は……
「わた、し……?」
目を見開き固まった。
道路に倒れる自分自身の周りには、先ほどの拓海のように血の池ができている。
"どういう事? あれじゃまるで"
「あれが今の貴方の姿よ」
少女が冷たく言い放つ。
言葉が出ない。体に力が入らない。けれど全身に鈍い痛みが襲う。
"そうだ。私は会社帰りに道を歩いていて、後ろから悲鳴がして振り返ったら"
目に映ったのは迫り来る車。
次の瞬間全身に痛みが襲い、そして。
「私、死んだんだ」