第九百九十八話 砦、奪われる
ルレイク王国の西端に位置する、イルシの砦が奪われたという報告があったのは、それからしばらくしてからのことだった。リノスらの許に入った情報によれば、砦を奪ったのは、ヘルキソというルシルナノ地域の領主で、さらには、その軍勢にはガノブの兵士たちも混じっていたのだと言う。
どうしてガノブの兵士が混じっていることがわかったのかというと、ガノブは堂々と使者を寄こし、イルシの砦を返してほしければ、ケンシンを差し出せと言ってきたからだ。書状で彼は高圧的に、しかし真面目に、ケンシンとの交換方法を指定してきた。
彼の書状にはイルシの砦からはガノブの軍勢は引き上げるが、その兵士たちは、すぐ隣の領地、すなわち、今は砦の主となっているヘルキソの領地に駐屯している。ケンシンは単独でそのヘルキソに来いと書かれてあった。
この書状を見たアガルタ軍の幹部は一様に眉をひそめた。単に一人の男が欲しいために、ここまでやるのかと呆れながらも怒ったのだった。
アガルタ軍の被害はかなり重かった。そこで復興作業に当たっていた三十名の兵士たちが討たれたのだ。数千規模の戦いにおいて死者数ゼロという戦いも珍しくないアガルタ軍にとって、三十名の死者というのは看過できない出来事であった。
とはいえ、アガルタの兵士たちも油断していた。砦を守っていた兵士たちは見張りも置かず、鎧を脱いで眠っていた。そこを襲われたのである。彼らが着用していた鎧と剣はすべて、敵に奪われていた。
マトカルは油断した者が悪いのだと言って、この結果は当然のことであるとして、全軍に注意を喚起するよう命じた。ルシルナノと国境を接している地域であるだけに、敵の侵攻は十分に予想できていたのにもかかわらずこの有様である。マトカルが怒るのも無理はなかった。
リノスらはこれからの方針を決めると、すぐにガノブからの使者に会い、ケンシンを引き渡す要求を拒否した。アミダバルと名乗る男は、フフンと鼻で笑うと、高圧的な態度を取った。
「我が皇帝陛下にあらせられては、貴国が我が要求を拒否した場合、さらにこの国に侵攻しても構わぬと言っておいでである。貴国は復興作業を行っているのであろう。我が軍が侵攻すると、さらにその作業は遅滞、頓挫することとなる。そうなる前に、ケンシンを引き渡してはいかがか。男一人で我が国の侵攻が止むのであれば、安いものではありませぬか」
アミダバルはそう言って、もう一度考え直すように促したが、リノスらの決断は変わらなかった。
「ところで、イルシの砦を攻撃したのは、お前か」
マトカルが口を開く。アミダバルは我が意を得たり、と言わんばかりに、大きく頷いた。
「左様。我がこの作戦を立案したのだ。実際攻撃を行ったのはヘルキソ王のご家来たちでありますがな。しかし、アガルタの兵士も弱いものですな。もう少し骨があると思っておったが、易々とヘルキソ軍の兵士たちに討たれた。後詰をしていた我が出る幕はなかった」
「あんまりそういうことは言わない方がいいよ」
リノスが口を開く。隣に控えているマトカルは一切表情を崩していないが、その腹の中では怒りの炎が燃えているのを彼は感じていた。
「帰ってガノブに言え」
「……」
「この戦いの様子を見て、さらに貴国が侵攻してくるのであれば、俺はこの国を守るために、皆の制止を振り切ってガノブの許に行こうと思っていたのだが、使者殿の振る舞いがあまりにも無礼であるために、その気分が萎えてしまったと」
「何だ、それは、私のせい……」
「使者殿が、もう少しお行儀よく振舞っていただければ、俺は行ってもいいかなとは思わないこともないこともないこともないこともなかったんだけれども、使者殿があまりにも無礼な振る舞いをなされるので、その気は、一切、金輪際、何があろうとも、天と地がひっくり返ってもあり得ない状況になりました、と」
「……承知した。戻って皇帝陛下に、そのように申し上げる」
「いま俺、結構長く喋りましたけれど、ちゃんと覚えましたか? ガノブには、俺の言葉を一言半句とも違えずに伝えていただきたい。よろしいな」
「承知した」
「復唱してみて」
「は?」
「俺は、先ほどの俺の言葉を、一言半句違えずにガノブに伝えろと言った。使者殿は承知なさった。確認のために復唱してくれと言ったのだ」
「つまりは……」
「つまりは?」
「貴殿は……」
「貴殿なんて言葉は言った覚えはないが?」
アミダバルは赤い顔をさらに赤くすると、歯ぎしりをしながらその場を去っていった。
「……えらく怒っていましたね」
「当り前だ。敢えて怒らせたんだ」
ホルムの言葉に、リノスが腕を組みながら口を開く。アミダバルの高圧的な態度に、リノス自身も腹が立っていたのである。
「さて……これからどうします?」
ホルムが口を開く。その場に居た全員が、己のやるべきことをわかっていたが、敢えて誰も口を開こうとはしない。こういう場合、この王と王妃は、人知を超えた作戦を思いつくことがあるからだ。
「まずは、これ以上ルレイクが侵攻されないように、イルシの砦の周囲を固めなければならない。それは、このルレイク軍の兵士を当てようと思う」
「承知しました」
宰相のノブザが恭しく一礼する。それを見たマトカルはさらに言葉を続ける。
「そして、イルシの砦を取り戻さねばならない。その軍勢は……」
「ちょっと待て、マト」
リノスが割って入る。彼は周囲の者を見廻しながら口を開く。
「砦に侵攻してきたヘルキソ王とはどんな男だろうか。あと、ヘルキソ王国自体についても調べてもらいたい。察するところ、そんなに豊かな国ではなさそうに見えるが……。いずれにせよ、調べてくれないか」
「承知しました。早速調べます」
宰相ノブザが恭しく一礼する。
「ノブザ、クロサギを使うのだ」
「承知しました」
クロサギ、とはアガルタ軍が新たに設立した斥候部隊のことであった。彼らはミーダイ王国のオワラ衆から直接訓練を受けた者たちでその数は百名を超えていた。マトカルはその中でも特に優秀な者たちを選んで、イルシの砦に向かわせることにした。
「彼らに砦だけでなくヘルキソ王国のことも調査させよう」
「そうだな。ただし、あまり動き回りすぎると、彼らに感づかれる可能性が高まる。あまり、無理はしないようにな」
「ああ、その点はよくわかっている。任せてくれ」
マトカルの言葉に、リノスは満足そうに頷くと、再び周囲を見廻しながら口を開く。
「今回の戦いで、三十名の兵士が犠牲になったことは、実に遺憾であるし、命を落とした者たちには哀悼の意を表したい。どうやら遺体に関しては戻ってくることはなさそうなので、せめて、家族のある者には最大級の支援をしてやりたい。その手続きを取ってくれ」
リノスの言葉に、ホルムは腹の中で唸っていた。と同時に、やはりこの軍勢は世界最強国であるという認識を新たにした。
大体、どこの国でも、王自らが死んだ兵士たちのことに言及することはない。よほどの功名手柄を挙げれば別だが、油断した上に命を落とした兵士たちのことなど、一切考慮に入れることはない。だが、この王はそうした兵士たちにも言及し、哀悼の意を述べた。これはすなわち、兵士の死という出来事が日常茶飯事ではないことを示している。ということは、兵士が死なない戦い方をし、死なない装備が充実していると言い換えられる。そんな国はこの広い世界の中に、アガルタを置いて他にはなかった。
そんなホルムの様子を見ながらリノスは、腕を組みながら大きく頷いている。
「できれば、戦うことなく砦を取り戻したいものだな」
リノスが誰に言うとも呟いた言葉に、そこにいた全員が、その言葉通りになるという確信を持った……。