第九百七十四話 新しい妻?
シディーはふと、目を覚ました。
かなり早朝だ。こんな時間に目覚めるのは珍しい。大体、彼女の朝は決まって誰かに起こしてもらうのが常だった。隣に夫のリノスがいるときは、彼に優しく起こしてもらい、それ以外はソレイユが起こしに来てくれる。ここ最近は娘のピアが、かあたん、かあたんと回らぬ舌で彼女を呼び、起こしてくれるようになった。ただし、娘はまだ幼児だ。力の加減というものを知らない。いつも全力で両手を彼女の体に向けて振り下ろす。そのときの彼女は実に嬉しそうだが、攻撃を受ける側はたまったものではない。それが顔に当たった日には、下手をすると一日中顔に手形をつけることになるのだ。
幸運にもこの日はリノスとベッドを共にしている。そうした心配は皆無だ。彼はいつも決まった時間に起きる。しかも、翌日起きたい時間に起きることができる。これはシディーにとって驚嘆する能力であった。とはいえ、リノス家の者は大抵、朝は決まった時間に起きてくる。大体寝起きが悪いのは、シディー、イデア、アリリアと相場が決まっている。そのため、イデアもしくはアリリアと一緒に寝ていると、二人はいつまでも起きて来ないことになる。リノスの指示で何度か誰も起こしに来ないことがあったが、そのときは決まって昼近くまで二人は眠るのだ。あるときなど、目覚めたら十五時ということもあった。さすがにこのときばかりはシディーも落ち込んだものだった。
とはいえ、皆が起きるまで一時間はあるはずだ。それまでもうひと眠りしようと、彼女は再び夫の傍近くに寄って目を閉じる。
「……アキナ」
出し抜けに夫がそんなことを呟いた。思わず目を開けて体を起こす。
リノスは大の字になって、スヤスヤと寝息を立てている。そう言えば、この寝方はイデアもピアも一緒だ。二人はきっと彼の能力を受け継いだのだ。ただし、イデアは早起きのスキルは受け継がなかったのだなと妙に感心していると、リノスが歯ぎしりをした。珍しいことだと見ていると、彼は再び口を開いt。
「……アキナ。……アキナぁ」
それが女性の名前であることはすぐに理解できた。アキナという女性にシディーは心当りが全くなかった。彼女は集中してその磨き上げた能力を使ってその女性を分析してみた。しかし、何もわからなかった。
……まさか、他に好きな女性が、できたか?
彼女は夫の寝顔を眺めながら心の中で呟く。確かに、言葉の響きからは、ある程度の好意を感じる呼び方だった。
「べっ、別に、べべべ、別に、ね……」
別に不思議なことではない。男性はいくつになっても若い女性を好み、求めるものだというのは知っている。彼も立派な男性だ。若い女性に興味を持つことは自然なことなのかもしれない。そういえば、ここ最近は、カイク帝国のことで留守にすることも多かった。もしかして、そのときに、新たな女性を見染めたのかもしれない。ホルムの結婚式も終わったことだし、タイミングとしては悪くない時期だ。
「……新しい妻を娶ろうと考えているのかな」
報告はおそらく、食事時にリノスが唐突に言い出すことだろう。きっと、妻たちの間では、それを冷静に受け止める者と、動揺する者とに分かれる。リコ様などは事前に相談を受けているだろうから、一切表情を崩さずにそれの言葉を受け入れることだろう。動揺を見せるのは……メイちゃんか。マトはそうしたことに興味がない。迎えるなら好きにするといい、というスタンスだ。ソレイユはそもそも、妻が一人増えようが二人増えようがそんなことに拘る性格ではない。きっと彼女は、自分の容姿に絶対の自信を持っていて、自分に勝てる女性はそうはいないと考えている。
心配なのはメイちゃんだ。彼女は優しい女性だ。そして、リノス様のことを心から愛している。彼が妻を迎えると言えば唯々諾々として受け入れるが、きっと彼女の心は傷つくだろう。そして、私も、その新しい女性と上手くやっていく自信は正直言ってない。
「ん……シディー……もう起きているのか。珍しいな……」
不意に夫が目を覚ました。思わず動揺を悟られまいと、背中を向ける。
「……まだ少し早いな。もうちょっと、寝ようか」
リノスはそう言ってシディーの背中を抱きしめた。
◆ ◆ ◆
「……アキナ?」
朝食が終わった後、シディーはリコとメイに今朝のことを話した。今日はたまたま二人とも仕事が休みということもあり、子供たちの世話を他の妻たちに頼んでの会議だった。
リコもメイも、アキナという名前に心当りはないらしい。それは二人の表情を見ればすぐにわかる。だが一方で二人とも、そうした別の女性の話が出るとは思ってもおらず、心の中では動揺していることがよくわかった。さすがにリコはそれを表情には出さなかったが、メイは両眼を小刻みに動かしているため、その動揺の大きさがよくわかった。
「……リノスの考えを聞くのが、一番ですわね」
リコが口を開く。もう、動揺はないようだった。さすがはリコ様だ。もう、覚悟を決めたらしい。肝が据わっている。一方のメイは、まだ動揺が続いているらしい。おずおずと顔を上げた。
「そ、そうですね……。お屋敷の部屋も埋まっていますし、新たな部屋を建て増すのか、どこか別の場所でお住まいになるのか……。それによって、色々と準備するものも違ってきますものね」
……メイちゃんらしくない。シディーは心を痛めながらそんな言葉を呟く。それはリコも同じ思いだったらしく、彼女はそっとメイの手の上に自分の手を置いた。
「リノスの考えを聞きましょう」
リコはまるで自分に言い聞かせるようにして立ち上がった。
◆ ◆ ◆
「アキナぁ?」
リノスは寝室のベッドに横になりながら本を読んでいた。その彼の許に、リコ、メイ、シディーの三人が赴き、今朝の話を言って聞かせた。彼は何かを思い出そうとしているのか、あらぬ方向に視線を泳がせている。
「強いて、言えば……」
「強いて言えば?」
リコが聞き返す。一見するとわからないが、強く緊張しているのがシディーにはよくわかった。そんな彼女たちの前でリノスは口を開く。
「子供の頃にファンだった歌手、のことかな。どっちかと言えば俺は、そっち側だったんだ」
「歌手?」
「そう。とても上手で、かわいらしかったんだ。同じ時期に同じように上手でかわいい歌手がいて、大抵はそっち側にいったんだけれど、俺は、ね。アキナ派だったんだ。いや~懐かしいな。あのときは、肩身が狭かった」
「あの……新しい妻に迎えるお方では……」
「いや、そういうことじゃない。それは、無理な話だよ。別の世界の人だからね」
そう言ってリノスは笑う。リコはシディーに視線を向ける。彼の言葉に嘘はないと彼女はゆっくりと頷く。正直言うとシディーは、顔から火が出そうなほどに恥ずかしかった。
リノスは機嫌のよさそうな表情を浮かべながら、鼻歌を歌っている。聞いたことのないメロディーで、あまり心地のよいものではなかった。リコたちは早々にその場を辞して、ダイニングに帰った。
「……本当に、申し訳、ありませんでした」
深々と頭を下げて謝るシディーに、リコとメイは優しげな笑みを向けた。
「いいのですわ。シディーの気持ちもよくわかりますわ。私も、きっと、同じことをしましたわ」
そう言ってリコは笑う。その様子を見たメイも大きく頷いている。
「ご主人様のお心が変わらないのがわかって、嬉しいです」
「それにしても……幼い頃の歌手とは、どんなお方だったのでしょう。そう言えば、ジュカ王国時代には、確か……」
リコがそんなことを言いながら、ジュカ王国のことを話しだす。その様子を見ながらシディーは、心の中でリノスに詫びを言うのだった……。