第九百七十三話 サイリュースの息子
その日、ソレイユはルノアの森深くにあるサイリュースの里に赴いていた。彼女はしばしばこうして里帰りをする。別に夫であるリノスとの仲が悪くなったわけではなく、リコレットをはじめとした、他の妻たちとの関係が悪くなったわけでもなかった。
彼女の里帰りの原因は、息子のセイサムだった。彼はしばしば喘息に似た症状を発症することがあり、その治療として祖母ヴィヴァルのいるこのサイリュースの里に預けられていた。
最初、彼がこの症状を発症したときは、リノス家では上を下への大騒ぎになった。医師として優れた知識と技術を持つメイの力をもってしても、彼の症状を止めることができなかった。万策尽く、と思われたそのとき、ソレイユが実母であるヴィヴァルに相談したところ、この里に連れてくるように命じられ、彼女は藁にも縋る思いで実家に赴いたのだった。すると、それまで苦しい息をしていたセイサムの体調が嘘のように落ち着いた。
サイリュースは精霊から力を得ることで命を繋いでいるが、まだ精霊と契約することができない子供たちは、セイサムのような症状を発症することがままあった。しかも、セイサムは基本的に女性しか生まないサイリュースの中にあって、唯一の男性であり、その点からも、普通のサイリュースとは異なる性質を持っていた。
ヴィヴァルの見解は、その原因はソレイユにあり、言ってみれば、彼女が契約する神龍様の力が強すぎるため、まだ抵抗力の弱いセイサムには過度な刺激となっていて、それがために拒否反応に似た症状を示しているというものだった。
一方、ヴィヴァルの契約する森の精霊は言わば、癒しと回復の効力を持っている。そのため、彼の症状を治癒するには打ってつけであると彼女は結論付けた。その予測は正しく、セイサムはしばしば、母であるソレイユに伴われてこのサイリュースの里に赴くのだった。
ソレイユは数日ぶりに会うわが子を愛おしそうに抱きしめる。彼も母親に会えてうれしいらしく、こぼれるような笑みを浮かべている。このまま母の許を辞して屋敷に帰ろうとしていたそのとき、ヴィヴァルはソレイユを呼び止めた。
彼女は一つの懸念を持っていた。それはこのセイサムが精霊と契約することができるか、という点だった。
ソレイユはその話を最初に聞いたとき、母が何を言わんとしているのかがわからなかった。そんなことは、歌を教えればすむことであり、できるだけ多くの歌を覚えて、数多くの精霊にアプローチをして、契約してくれる者を探せばいいと考えていたのだ。だが、ヴィヴァルの見解は違った。サイリュースの歌は基本的に女性の声で歌うことを前提としている。つまりは、音域が高く設定されている。そうでなければ、精霊たちの興味を引かないからだ。
一方でセイサムは男性だ。男性には変声期というものがあり、音域が低くなりがちだ。それでは精霊たちの契約を勝ち取ることは難しい。精霊と契約できなければサイリュースは死が待っている。ヴィヴァルはその点を懸念していた。
サイリュースが精霊と契約するのは、大体、十三歳から十五歳の間だ。十一歳~十二歳で契約する者もいるが、それはごくまれなケースであった。ヴィヴァルは、セイサムがこれから先生き残るためには、変声期迎える前に精霊と契約することが必須であると説き、物心つく前から高い音域で歌う訓練をし、同時に歌を覚えることが必須であると説いた。
……何もそこまで考えなくとも、と正直ソレイユは思う。彼は彼で、成長に合わせて今後の対策を考えればいい。未だ、海の者とも山の者ともわからないうちにそのようなことを考えても、せんのないことだと心の中で呟いた。とはいえ、母もこの子のことが可愛くてならないらしい。折に触れて息子のことを考え、世話を焼いてくれるのが、彼女にとっては嬉しかった。
とはいえ、母・ヴィヴァルの懸念は、ソレイユの心に深く刻まれた。彼女は思わず同じ妻であるコンシディーにこのことを相談したのだった。
彼女は優れた予知能力でセイサムの今後を占った。
「う~ん。大成功か、大失敗か、どちらかという感じがする」
シディーはそう断じた。少し力を使いすぎたのか頭痛がするらしい。彼女は両手の親指でこめかみのあたりをぐりぐりと押している。
「セイサムの人生はとても極端なものになるような気がする。ものすごい大成功か、大失敗に終わるかのどちらか」
「その……大失敗、というのは……」
「ソレイユが考えていることで、合っていると思う」
「……」
「ただ、今の段階では、私も自信をもって言えることはないわ。ただ、それだけ。今は、それだけしかわからない」
シディーの言葉にソレイユは少し落胆の様子を見せた。いつもは余裕たっぷりに振舞う彼女にとってこの姿は、極めて珍しいと言えた。
そんなソレイユの様子にいち早く気付いたのがリコだった。彼女はソレイユを自室に呼ぶと、事の詳細を聞いた。
「ソレイユの気持ちはよくわかりますわ。母親として、何とか対策を練りたいですわね。私も同じ気持ちですわ」
リコの言葉にソレイユは心から安堵した表情を浮かべた。
「素人考えで申し訳ないですが、セイサムが、声変わりしたとしても歌える曲はないのですか? なければ、作ってみてはいかが?」
まさに青天の霹靂だった。そうだ、作ればいいのだ。精霊たちがどのような音を好むのかは承知している。必ず女性の声でなければならないという約束事はない。そうした歌を作ればいいのだ。
そうは考えはしたものの、ソレイユは歌を覚えることはできても、それを作る能力はなかった。色々と相談した結果、そうした芸術分野に造詣が深い、フラディメ王国のメインティア王に相談してみることにした。
「……うん。それはいいね。協力させてもらうよ」
メインティア王は話を聞くと大いに乗り気になった。彼はソレイユから精霊の好む音をつぶさに聞き取ると、う~んと言って天を仰いだ。
「ずいぶん制約が多いねぇ。まあ、作って作られぬことはないけれど、それには少し時間がかかるかなぁ。まあ、喫緊の課題というわけではなさそうだから、時間をかけてゆっくりと作るといい。幸い、我が国にはそうした音楽に精通した者たちが多くいる。彼らに曲を作らせようじゃないか」
ソレイユは王に深く感謝した。そして、夫と共に、協力は惜しまないと告げたところ、王はカラカラと笑い声をあげた。
「ハハハ。アガルタ王に音楽の才能がないのは、あなたもよくご存じでしょう? あの国歌の歌詞を見てもそれは明らかだ。あれは酷かったねぇ。まともな教育を受けた者が書く詩じゃない。話をするのは上手なのに、どうして詩となるとあんなことになるのか……まったく不思議なお人だね、彼は」
メインティア王はそう言って苦笑いを浮かべながら首を左右に振る。
「まあ、歌詞についても、我々に任せてもらいましょうか。もちろん、気になる箇所があったらご指摘ください。できるだけご希望に沿う形に書き直させます。そんなに謙遜されなくても大丈夫です。我が愚息、オンサールとアガルタ王の息女であるピアトリス姫とは許嫁の関係にある。将来は縁戚となる間柄だ。このくらいのことはさせてもらいますよ」
そう言って王は笑った。
ソレイユは王の許を辞したその足で、夫であるリノスに報告に赴いた。彼は何とも言えぬ表情を見せたが、彼女の報告に関しては一切口を挟まず。よろしく頼む、と一言だけ言った。
ややあってリノスは、何か言いにくそうな表情を浮かべると、小さい声でソレイユに呟いた。
「歌詞は……俺も書かせてくれ。今度は、いい感じのものが書けそうなんだ」
その言葉に、彼女は戸惑いながら頭を下げた……。