第九百七十二話 カイク帝国の行く末
リノスが帝都の屋敷にヴィエイユを迎え、子供たちと共に楽しい? ひと時を過ごしていたそのとき、カイク帝国皇帝、ガノブ二世は漆黒の闇の中、馬を駆っていた。少し距離をおいて、彼の親衛隊数名も後に続いている。
別に追手が迫っているわけではないのに、ガノブは馬に鞭を当てて、より速く走らせようと努めていた。もとより馬の扱い方には長けている彼だ。後ろの親衛隊はそれに付いて行くことができず、少しずつ距離が離れ始めていた。
ガノブは家来たちのことなどは微塵も考えていなかった。彼の脳裏では、つい数時間前に会った、アガルタ王とヒーデータ帝国皇帝、そして、舞踏会で垣間見た女性たちの顔が次々と浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返していた。
そのなかで、とりわけ意外だったのがアガルタ王だ。彼の持つイメージとは真逆の男だった。何とも飄々とした優男で、彼は初めて見たときはてっきり、ヒーデータの王族か何かだろうと考えた程だった。
だが、二人と対峙したそのとき、ガノブはこの優男に一切の隙がないことを見抜いていた。もし、剣をで二人を襲ったならば、ヒーデータの皇帝の首は刎ねる自信があった。だが、この優男は楽々と自分の剣を躱すことだろう。それどころか、この男が剣を持っていたならば、自分の首が危うい。そう感じさせるものがあった。
すべてが意外。自分の予想していた人物像のことごとく逆であったのがあの、アガルタ王だ。単なる優男と見えたが、その実は相当の実力者。少し理解不能な言葉を喋ってくるかと思いきや、実際に話をしてみると、かなり的を射たことを言ってくる。何とも掴みどころのない男……。ガノブはこういう男が一番嫌い、というより、苦手であった。もしこの王が自分の家来ならば、徹底的に追い込んでその本性を暴く。それはつまり、彼がリノスを心のどこかで恐れていることになるのだが、ガノブはそれを認めたくはなかった。
意外、と言えば、あのアガルタ王の妃たちもそうだった。彼が見たのは正妃・リコレットとメイリアスだが、二人とも彼の欲望を刺激しなかった。二人は確かに美しく、聡明さが際立っていた。だが、こういう女性は頑固だ。単なる頑固さではない。己の考えや信ずるものに対しては命を懸ける。ガノブがいくら頬を一つ二つ張り倒したところで、意のままにならぬのは明白であり、無理やり襲えば彼女らは間違いなく、さっさと自ら命を断ってしまうだろう。彼にとっては、面白みのない女性たちであった。
むしろ、アガルタ王はよくもこんな二人を妻にしているな。さぞ苦労が多かろうというのがガノブの評だった。
一方で、彼の心を強くとらえたのが、クリミアーナ教国教皇であるヴィエイユだった。噂には聞いていたが、絶世の美女だ。この教皇は、十指に余る男たちを泣かしてきている。そうでなければあの色気は得られないことをガノブは知っていた。
並の男であれば、近づくだけでその心を奪われるだろう。彼女は世の男性が抱く理想の女性像をすべて備えていると言ってよかった。というより、男の欲望を知り尽くし、それを刺激するために作り上げられた顔と肉体であると言ってよかった。
きっとあの白い衣装の下には、磨き抜かれた肉体がある。男であれば抱きつきたくなるようなそれだ。だが、決して彼女に触れることはできないし、今の彼女にはそれを許さぬだけの力があった。そうしておいてこの教皇は、男たちの欲望を上手に操りながら、属国をまとめ上げているのだ。
この教皇は、視線に気づいたそのときから、じっと自分を見つめ続けていた。こぼれるような愛嬌のある眼だ。いつでもいらっしゃいと言っているように見えた。だが、今の二人の間には、越えられぬ壁があった。床の上に立っているガノブと、バルコニーにいるヴィエイユ。二人のこの越えられぬ距離はそのまま、二つの国家の国力を表していた。
「いずれの日か、あのドレスを剥ぎ取り、我が逸物を、全世界を土産に叩き込まん」
そう言うとガノブは気が狂れたように笑い声を上げた。いずれの日か、俺が力をつければ、あの教皇はそのうち、自分から近づいて来ることだろう。そうなれば、あとは力づくでモノにして、俺の女にしてしまえばいい。彼は頭の中でそんなことを考えていた。
根拠はないが、ガノブには自信があった。
「女を手に入れるために、世界を獲る。悪くないな」
彼はそう言いながらさらに馬に鞭を当てた。カイク帝国の周辺国を征服することは簡単なことだ。ウラワを名乗っていた時代から遠乗りに出かけ、国の内情はある程度掴んでいる。どいつもこいつも、腰抜けの王たちばかりだ。ものの数年で、カイク帝国は周辺国を併呑してしまうことだろう。だが、ある程度まではよくても、さらに領土を広げようとすると、必ずヒーデータかクリミアーナにつながる国とぶつかることになる。問題はその点にあった。
どちらと戦うのかは言うまでのないことだった。クリミアーナは教皇・ヴィエイユを自分のモノにしてしまえば、自ずとその属国を手に入れたも同然となる。敢えて彼女と事を構える必要はなかった。しかし、ヒーデータと戦うには、いくつもの壁が立ちふさがっていた。あの帝都を陥落させるためには、いくつもの大国を撃破していく必要があるのだ。
ガノブの目には、ヒーデータの皇帝は人の好い聡明さを兼ね備えた人物に映った。そう、一言で言えば、何か困ったことがあれば助けてくれる。そんな感情を持たせるような男だった。
直接話をしていても、一切不快な感情は持たなかったが、話しを上手にはぐらかしてその場を収めていた点を見て、彼はこの皇帝を、人あしらいが上手い人物であると評していた。人あしらいが上手いということは、人を動かすことが上手いという点に繋がる。ガノブのように力と恐怖で人を動かしていくのではなく、情で相手を操る。つまりそれは、己の手を一切汚すことなく、人を使って問題を解決していく。考えてみれば、実に厄介な敵であると言えた。
ふと、ガノブは馬を止めた。体力の限界が近いためか、馬は苦しそうな息を吸っては吐き、吸っては吐きを繰り返している。ややあって、遅れていた親衛隊の者たちが、続々と彼の許に追いついてきた。
「陛下ぁ。あまり一人で先に行かれると困ります。少しは我らのこともお考え下さい」
親衛隊長のツネが苦笑いを浮かべながら口を開く。だが、ガノブはその彼の言葉には反応を示さず。ただ一点を見据えたまま動かなかった。
「陛下……。おお……」
ツネは思わず嘆息を漏らした。目の前には大きな湖が広がっており、その上空には見事な満月が浮かんでいた。それが湖面にも映り、何とも形容しがたい見事な景色を映し出していた。
彼はてっきり皇帝はこの景色に心を奪われているのだと解釈していたが、当のガノブは全く違うことを考えていた。
「ツネ、我がカイク帝国は、帝国に生きとし生ける男たちはすべて、兵士とするぞ」
「は……」
出し抜けにガノブが口を開いたために、ツネたち親衛隊はポカンとした表情を浮かべている。そんな彼らを一瞥したガノブは再び馬に鞭を当て、脱兎のごとく駆けだした。
ガノブは帰国後、新たな徴兵制度を打ち出して、兵士の増員を図った。それだけでなく、兵士と彼らが住まう地域とのつながりを強め、彼らの働きを逐一地域に伝える取り組みを行った。兵士たちは活躍すれば隣近所から称賛される一方で、逃亡などを企てればたちまち地域から村八分にされるなどの罰を負うことになる。それが功を奏して、ガノブ率いるカイク帝国の兵士は死に物狂いで働くことから、次々と周辺の国々を制圧していくことに成功するのだった。
彼は版図が広がる度に家来たちに国替えを命じていった。ガノブの家来は長い間、戦いで疲弊した領地の回復に携わることになり、その精神をすり減らしていくことになるのだった。そのひずみはのちに大きな事件に発展するのだが、それはまた、別の話である。
第二十九章、これにて完結です。例によって間話を挟み、新章に突入する予定です。