第九百七十一話 条約交渉
俺が乗り気ではないと判断したらしい。ヴィエイユは、隣に控えているリコに視線を向けた。だが、さすがはリコだ。ちょっとした微笑を浮かべただけで何も言わない。これでは彼女が同意しているのか拒否したいのか、表情からは伺い知ることはできない。こういう政治向きな話しに関してで言えば、百点満点の姿勢だ。
「あの、ガノブが気になるか」
俺の言葉に、ヴィエイユはいつになく真剣な表情を浮かべた。
「左様です。今この時に、私どもとアガルタが手を結んでおくべきであると考えました」
「その根拠は」
「私の勘です」
一笑に付すにはたやすい。だが俺は、この小娘の目に、ちょっとした恐れを見た。
「同盟、ねぇ……。アガルタとクリミアーナは、何度か共同戦線も張った仲だ。今更同盟だ何だという間柄でもないと思うんだがな」
「そういう問題ではございません。要は、国の外に向けて、私どもが強固な絆で結ばれていることを示すことが大切だと愚考します」
「虎の威を借る狐、か?」
「はい?」
「アガルタと同盟すれば、アガルタの後ろ盾を得られる。アガルタの後ろ盾を得るということは、アガルタの同盟国、例えばヒーデータ、例えばフラディメ、例えばサンダンジ……そういう国たちとつながりを持ち、後ろ盾として使える。そうしておいてお前は己の野望を達成させようとしている……そんなところか?」
「私に野心はございません。敢えて言うならば、生きとし生ける者が幸せに暮らしていく……それがわたしの希望ですわ」
「そんなことは他所に行って言え。お前の考えていることなど、俺には手にとるようにわかる。確かに同盟の意図には、これから版図を広げていくであろうガノブに対する防衛という点もあるだろうが、その実は、後ろ盾を得ることで国内の反対意見を押さえ、属国の離脱への意識を削ぎ、クリミアーナ教の信徒たちの忠誠心を上げるための算段だろう? 一石二鳥ならぬ、一石三鳥というわけだ」
「さすがはアガルタ王様ですわ。そういうお考えがございましたか。私には到底思いつかないことですわ」
「やかましいわ。図星だろうが」
「いいえ。私にはそうした意図はございません。ただ、あのガノブというお方に、私どもの教徒が徒に攻撃されるのを防ぎたいだけでございます」
「ガノブが攻撃してきたら、戦えばいい。そのときは俺たちも微力ながら手伝ってやる」
「そうではございません。それではいけないのでございます」
「いけない? なぜ?」
「攻撃をされるようではダメなのです。攻撃する意志を、摘まねばなりません。つまり、攻撃する意識すら起こさせないようにすることが肝要なのです」
「攻撃する意識、ねぇ……」
「考えて下さいませ。アガルタ王様は、こちらのリコレット様を殴ろうとお思いになりますか?」
「リコを? バカなことを言うな。殴ろうなんて思ったことは一度もないわ」
「そうでございましょう。それは、リコレット様が、あなた様にとって攻撃をする意識すら起こさせない存在だからでございます。もし、アガルタ王様がリコレット様に暴力をふるった場合、そのデメリットは計り知れません。きっとご実家のヒーデータは黙っていないでしょうし、下手をすれば手切れになる可能性すらございます。その上、ご家庭におけるあなた様の地位も大きく揺らぐことでしょう。他のお妃さまはあなた様から離れ、お子様たちとも離れることになります。アガルタの信は地に落ちて、国力と国威は大きく減じることになるのです」
「すまんがヴィエイユ。俺はリコをそんな風に考えたことはない。俺はただ、リコを愛している。それだけだ」
リコの頬が少し赤くなった。ヴィエイユは破顔一笑と言って差し支えない程の笑みを見せた。
「ホホホ。御馳走さまでございました」
「バカ野郎。からかうな」
俺の言葉に彼女は、いかにも参りましたと言わんばかりの表情を浮かべた。何とも可愛らしい振る舞いだ。世の男子であれば、カワイイと言って喜ぶ仕草と表情だ。女子には死ぬほど嫌われるだろうが。
ヴィエイユはゆっくり頷くと、再び真剣な表情を浮かべた。
「ただ、同盟のことは、私は本気でございます。アガルタ王様におかれましては、是非、ご検討を賜りたく存じます。そのための犠牲は厭いません。何なりと条件をお出しください」
「えらく下手に出たな。条件……条件、ねぇ……。特に希望するものはないんだけれどな」
「差し支えなければ、これは、リコレット様の前で言うのも恐縮ですが、私と婚儀を結んでいただくというのはいかがでしょう」
「イヤだよ。それは単なる罰ゲームじゃないか」
「別に私があなた様のところに輿入れするわけではございません。形の上で、でよろしゅうございます。私があなた様と婚を通じたならば、アガルタは我がクリミアーナを膝下に置いたも同然となります。おそらく、ヒーデータの皇帝陛下も、お喜びになるのではないでしょうか」
「喜ぶか? いや、ないわ~。お前との結婚……ないわ~」
「……そんなひどいことを言わないで下さいませ。私は傷つきました。これがもとでアガルタ王様を見限り、私がガノブ様の許に参じたら、いかがなさいますおつもりですか?」
「何だ。俺を脅しているのか? 別にガノブの許に行きたきゃ行けばいい。きっとあの男もお前のことが大好物なはずだ。それはもう、朝となく夕となく愛してくれることだろう。ヴィエイユ、お前自身も、あんな男が大好物であるはずだ。ただ、こう言っては何だが、お前はあの男をコントロールする自信がないのだろう。それはそうだ。あの男は国をどうこうしようなどという考えはない。ただ、己の欲望に忠実に生きる男だ。やりたい、己が正しいと思うことをやる。結果は考えない。そういう男だ。これは圧倒的多数の男がそうありたいと思いながら、なかなかできないでいる姿勢だ。それが簡単にできてしまうのは。ある意味で純粋な男だと言えるだろう。こういう男に策謀や篭絡は通じないというのは、お前が一番よく知っているはずだ。俺が見たところ、あの男を傍に寄せたら最後、力づくでモノにされて、腹散々好き放題された挙句に捨てられる。お前が得をすることは一つもない。それがわかっているからこそ、お前はこうやって俺の所にわざわざ来て、同盟などと勿体をつけて己の身を守ろうとしているのだ。違うか?」
俺の言葉に、今度はヴィエイユが天を仰いだ。
「……そのとおりでございます。相変わらず、人の心の中を見通すのがお上手ですわね」
「早くそう言えばいいのに。相変わらず可愛げがないな。まあ、心配するな。さっきも言ったが、まんざら知らぬ仲ではない。俺も陛下もニケ王も、お前が困ったときには手を差し伸べてくれるはずだ。己の身が危ないと感じたときは、いつでも言ってくるがいい」
「……」
ヴィエイユは少し不貞腐れたような表情になっていた。そんな彼女に、俺はさらに言葉を続ける。
「やっぱり女子は素直なのが一番いいぞ。その方が、伝えたいことが……」
「……うるさい」
「え? なに?」
「それ以上喋ると、本当に、ブッ飛ばしますよ」
「おおおお……」
思わず変な声が出てしまった。俺は隣のリコに視線を向ける。
「……やっぱり、女子が怒ると、怖いね」
リコはニコリと笑うと、小さく頭を下げた。それは俺たちの会話に少し、呆れているようにも見える。
「俺たちはもう、屋敷に帰るが、せっかく来たんだヴィエイユ。お前もウチに来て、食事でもどうだ。振舞ってやるぞ」
彼女はスッと姿勢を正したかと思うと、ペコリと頭を下げた。
「お願い申し上げます。このところ少し、教皇としての重責に少し疲れております。お屋敷で美味しいものをいただきながら、少し普通の女子に戻って、息抜きをしたく存じます」
その言葉に、俺はカラカラと笑い声を上げた。