第九百六十三話 二つの使者
あれからさらにひと月が経った。俺はアガルタの都でカイク帝国の使者を引見していた。
迎賓館の謁見の間で俺の前に控えているのは、マツシレイの新領主となったナノルだ。その後ろにはコリタの姿も見える。その隣には、何とも一癖ありげな男が俺に鋭い視線を向けていた。
ナノルはマツシレイの支援について心から礼を述べ、領民たちを救ってくれたと言って涙を流した。コリタも彼の後ろで泣いていた。別に泣くこともないだろうとは思ったが、彼らにしてみれば、これから先、飢饉の可能性が減ることを考えると、そうした様子になることは理解できた。そんな彼らに、隣に控えていたリコは優しい笑みを向けている。
実は俺はこの会談に臨むにあたって、彼らとアガルタ大学の間で協定を結んではどうかと考えていた。飢饉は色々な原因で発生する。領主の無能が原因であればどうしようもないことだが、いわゆる天候不順や災害を原因として発生する点においては、研究する余地があると考えていた。そして、それらのことが起こっても、ある程度飢饉の発生を抑えるノウハウが構築できれば、アガルタにとっても利益があるし、それは他国に対しても利益があるはずだ。
だが、リコの反応は違った。あまり、カイク帝国に深入りするなと彼女は言ったのだ。最初、その言葉を聞いたときに俺は我が耳を疑った。世界の人のためになることなのに、どうして反対するのかがわからなかった。
しかし、彼女は未来を見据えていた。リコはメイたちからの報告を聞いて独自でカイク帝国のことを調べた結果、食料の心配がなくなったあの帝国はきっと、他国に侵攻していくだろうと断言したのだ。つまりは、俺たちがあの国に支援をすればするほど、周辺国の緊張は高まり、そして侵略される。間接的に俺たちは多くの恨みを買うことになるのだ。
このときの俺は、さすがにそこまでは読めていなかったが、これから間もなく帝国は隣国に侵攻し、リコの予想が正しかったことが証明されることになる。俺がリコに心から感謝することになるのは、もう少し先のことだ。
話を元に戻す。
ひたすら感謝の言葉を述べ続け、何としても礼をしたいと言うナノルたちに対して、その必要はないという俺。ちょっとした押し問答になりそうになっていたそのとき、鋭い視線を向けていた男が口を開いた。
「我が国と同盟を結んでいただくのはいかがでしょうか」
男はシャハと名乗り、これは殿下のご裁可を得る必要がありますが、と前置きしておいて、同盟の内容を語り始めた。
一言で言えば、アガルタにとって有利な条件だった。彼らは、同盟を結んでいる間は、アガルタに年間数億円の同盟料を支払うと言ってきたのだ。これは対等な同盟とは言えない。まるで、カイク帝国がアガルタに従属するかのような内容だった。
突然の提案にナノルらは驚いていたが、そんな彼らを無視してシャハは俺に、同盟締結の意志を聞いてきた。殿下のご裁可、などと言っていたが、おそらくこの提案はあの殿下の差し金だろう。この話を聞いたとき、俺はようやくリコの話しを理解することができた。
カイク帝国の周囲は穀倉地帯だ。それらを手に入れると、帝国は莫大な富を手にすることになる。恐らく殿下の狙いはそこだ。そして、手にした富を兵士の武器や防具に充てて軍事力を強化する。そして、その兵士をもってさらに周囲を侵攻していく。そうしていけば、アガルタに払う同盟料など問題ではなくなるし、同盟を盾にアガルタから援軍を呼ぶことができるとなれば、そんな金は安いものだと考えているに違いない。
「悪いけれど、俺は金には興味がない。同盟などと大層なことをしないで、まずは、民衆同士が交流し合う関係性を築けばいいんじゃないかな」
俺の言葉に、シャハは意外だと言わんばかりの表情を浮かべた。すかさずリコが無言のままゆっくりと頭を下げた。これだけで、この男は言葉を続けることができなくなり、会談は終了した。リコの振る舞いは実に見事と言ってよかった。
ちなみに、シャハとはこのときを最後に、姿を見なくなった。別に俺も聞きはしないが、おそらくあの殿下のことだ。命を取りはしないまでも、自分の周囲からは遠ざけたか、どこかに追放したのだろう。いずれにせよ俺は、この国と深くかかわろうとするのはよそうと思ったし、それが正解だったことは、後年になって証明されることになる。とはいえ、民衆レベルの交流は続き、カイク帝国からは毎年優秀な若者がアガルタ大学に入学することになる。これもあの殿下の差し金で、帝国の中でも選り抜きの者たちがやって来たが、彼らはメイの薫陶を受けて、実に公平な視点を持って帰国することになる。その彼らが後年、帝位を継いだ殿下の大きな脅威となるのだが……。それは別の話だ。
このカイク帝国の使者と時を同じくして、俺の許にはネルフフ王国からの使者も訪れていた。ライクと名乗る老人で、フィレット王女の傍近くに仕えていたのだと言う。彼は俺に会うなり、姫を我が国にお返しいただきたいと宣った。お返しも何も、あの王女様が勝手にやって来て勝手に居付いているので、返す、返さぬの話ではない。帰国したければいつでも帰国してくださいと言うと彼はハハアと深々と平伏した。
ジイさんとの会談が終わった二時間後に、今度はフィレット王女が俺に面会を求めてきた。むろん、あのライクという爺さんを伴って、だ。彼女はこのジイを何とかしてくれと泣きついてきたし、ジイさんはジイさんで話が違うといって俺に食ってかかってきた。
「聞けば、姫様にあらせられては、貴国のホルムとか言う男と結婚するといわれるではありませぬか! 私はそのようなこと、一言も聞いてはおりませぬぞ! 一体、貴国は我が国の姫をいかがなさるおつもりか!」
……知らんがな、という言葉が出そうになる。ライク爺さんは顔を真っ赤にして、肩で息をしながら俺を睨みつけている。本当に、勘弁してもらえないかな。
対してフィレット王女は、私の人生は私が決めると言い、それにライク爺さんが反応して言い合いになっている。誰かヤツらを止めてくれぇ……。
「大丈夫でして?」
気がつくとリコが二人の間に立って優しい笑みを浮かべていた。後で聞くと、たまたまルアラやフェリスの仕事の手伝いに来ていたらしい。屋敷にいるときのような服装だが、辺りを払う美しさはそのままだ。ライク爺さんが目を丸くしてリコを眺めていた姿が、何ともおかしかった。
彼女はこの爺さんの長話をうん、うん、と丁寧に聞いた。傍で見ていて、もうそのくらいでいいですやん、と何度も言いそうになったが、リコの様子を見ていると、口を出すのが憚られた。喋るだけ喋ったジイさんはハアハアと肩で息をしていたが、その彼にリコは、よくわかりましたと言い。王女には私からお話しをしてみますわと言って、王女を伴ってその場を去って行った。
リコに任せておけば大丈夫だろうと、ホッと胸を撫で下ろしたそのとき、リコの振る舞いに感激したライク爺さんは、あのお方はどなたですかと俺に問いかけたのを皮切りに、俺を質問攻めにした。そして、リコの素晴らしさを語りながら、手塩にかけて育てたフィレット王女が子供の頃、いかにかわいらしかったかを長時間かけて喋った。その間俺は逃げるに逃げられずに、ずっとその話を聞くハメになった。途中、お手洗いに行きたくなり、中座しようとしたのだが、この爺さんは何と、手洗いまで付いて来て喋り続けた。
俺は手洗いの個室で、泣きながら用を足した……。