第九百四十八話 ややこしい状況
馬上の男は不敵な笑みを浮かべている。ただ、下卑た笑いではない。今の状況を心から楽しんでいるという雰囲気だ。
「もうそのくらいで……」
「構うな!」
今の状況を収めようとしたのだが、フィレット王女に一喝されてしまって、体がビクリと震えた。てゆうか、このお姉さん、めっちゃ怖いやんけ……。
その様子を見た男は、槍を持ったままひらりと馬から飛び降りた。そのとき、周囲に控えていた兵士の一人が男の傍に寄ってきた。
「殿下、もう、そのくらいで……」
……今、殿下って言った? ということは、この男は王族か。
殿下と呼ばれた男は、ニヤリと笑みを浮かべると、槍を引いて大きなため息をついた。何でもない振る舞いだが、俺にはわかる。この男はとんでもなく強い。かなりの修練を積んでいるのがわかる。思わず俺はこの男に鑑定スキルを発動させた。
「うおっ! マジか!」
思わず声が漏れた。殿下と呼ばれた男もフィレット王女も驚いている。それはそうだよね……。
鑑定してみて驚いた。この男には称号が付いていた。その名も「天下布武」。ノブナガじゃないか……。
惜しいな。「風林火山」なら、シンゲンとケンシンで龍虎相対すになるのだけれど、などと心の中で呟いてみるが、今の状況には全く関係ない話だ。
「何だ、貴様は」
ノブナガ――殿下は俺に視線を向けると、大股で近づいて来て、俺の目の前に顔を持って来て睨みつけた。こっ、怖ぇぇ……。
「やめろ、その者は関係がない」
フィレット王女が声を荒げているが、そんな声など知ったことではないとばかりに、このノブナガ殿下は俺を睨み続けている。
「いっ、いや……殿下と、呼ばれていたので……」
「……貴様、相当できるな? 名は何と申す。どこから来た? それに貴様はなぜ、顔を隠している」
……どうやらこの殿下は、人の話は聞かないのだなと考えながら、仕方なく口を開く。
「ケ……ケンシンと申します。顔は……顔に自信がないからです。決して男前すぎて敢えて顔を隠しているわけではないのです」
「何だと?」
……明らかに怒っている。しまったな、ちょっと舐めすぎたか。
殿下は俺を睨みながらゆっくりと後ろに下がっていった。彼は俺を睨みつけながら、フィレット王女に槍を向けながら口を開く。
「女、貴様は何者だ。名は何と申す。民衆を扇動して、何をするつもりだ。答えろ」
「人にものを尋ねるのであれば、まずは自分から名乗ったらどうだ。それにカイク帝国の作法は変わっているな。人と喋るときにわざわざ刃を向けねばならないのか」
「無礼者!」
殿下の後ろに控えていた若い兵士が剣の柄を握りながら前に出た。それを見た瞬間、フィレット王女は目にも留まらぬ速さで腰に差している剣を抜いた。気がついたときには、王女の剣の切っ先は、兵士の鼻先に向けられていた。
「……」
これまでの一連の動きが見えていなかったのだろう。兵士は剣の柄を握ったまま、驚きの表情を浮かべながら立ち止まり、そして、震えていた。
「フフフ、止めろ、オルレス。貴様が太刀打ちできる相手ではない」
殿下はそう言って不敵な笑みを浮かべると、突然大声を上げて笑い出した。
「ハァッハッハッハッハ! 久しぶりに面白い者どもと出会えたわっ! いいだろう、気に入った。貴様ら、俺の陣所に来い。特に貴様は気に入った。お前には今宵、俺の伽を命じる」
殿下はそう言って手でフィレット王女の顎を掴んだ。すぐに彼女はその手を掴み返して、怒りを湛えた目で男を睨みつけた。そこにホルムが慌てて間に割って入った。
「恐れ入ります、恐れ入ります」
「何だ貴様は。邪魔をするな」
「誠に恐れ入りますが、こちらにおいでのお方は、名前は申し上げられませんが、さる国の王女様であらせられます。このままですと、貴国と、こちらの王女様とのお国との間に、亀裂が入ることになります。恐れ入りますが、このままお引き取り下さいませ」
「貴様は……何だ」
「ホルム、貴様は黙っておれ! これは、私とこの男の問題だ。国は関係ない!」
「ほう、ホルムと言うのか。貴様もなかなかクセがありそうだな。俺はそういう男が嫌いではない。面白い話が聞けそうだ。参れ!」
殿下はそう言うと、左手をフィレット王女の腰に廻して抱き寄せた。彼女は顔を真っ赤にしながら脱出をしようとしているが、男の力が強いのだろう。動けないでいた。俺はすぐ後ろにいたジジイの杖を手に取ると、それで男の肩を軽く突いた。
「クッ、なっ……?」
俺の行動が全く予想していなかったのだろう。彼は態勢を少し崩すと、突かれた部分に手を当てながら俺を睨みつけた。その隙に、フィレット王女は脱出に成功し、ホルムが彼女を守るようにその前に出ていた。
実を言うと、少し危なかった。ホルムが殺気を放っていたのだ。あと一歩遅ければ、ホルムは剣を抜いて男を斬っていただろう。さすがにそうなってはややこしいどころか、大問題になる。まあ、転移結界を発動させれば逃げられるのだが、直感的にそれをするべきではないと思ったのだ。
とはいえ、ややこしい状況となったのは変わりがない。さて、どうしようかな。
「貴様ぁ!」
殿下が突然大声を上げたかと思うと、腰に差している剣を抜いて斬りかかってきた。完全に俺を殺す気だ。殺気が半端ではない。
男は袈裟斬りに剣を振り下ろした。それを紙一重のところで躱す。普通であれば、重さで剣は振り下ろされるのだが、この男は、俺が躱したと見るや、途中で剣を止めて、そこから真横に払ってきた。これには驚いた。左手で男の手を掴んで剣を止める。
「おおおっ!」
まるで獣の咆哮のような雄たけびを上げながら俺の手を払うと、大上段から斬りかかってきた。それを躱して距離を取る。だが男は諦めない。俺の急所を正確に突いてきた。それも紙一重で躱す。
俺から言わせれば、この男は力は人並み以上にあるが、無駄な動きが多すぎる。もっと最短距離で相手の急所を突くなり斬るなりするべきだ。そのために必要なのは、筋肉ではなく、脱力だ。
「貴様一体何者だ!」
男が肩で呼吸をしながら叫ぶ。
「この国で俺の剣をここまで躱せる人間はいない。一体何者だ! オイ貴様、コイツは誰だ!」
俺と話をしても埒が明かないと見たのか、俺のすぐ後ろに控えているジジイに話しかけた。さすがに殿下と呼ばれるだけあって、ジジイは恐縮してペコペコと頭を下げている。
「わっ、儂もよくは知りませんですじゃ。ただ、このお方……ではなく、あの女性のお方は、我々のことをよくお助けしてくれましたですじゃ。病に臥せる者に薬草を煎じてくれたり、食べ物を恵んでくださったりと、色々と世話をしてくださったのじゃ」
……おい待て、俺も炊き出しをしたやないかい、という言葉を飲み込む。
「俺たちは旅の者だ。たまたまこの町に立ち寄っただけに過ぎない」
俺がそう言うと、殿下がフンと鼻で笑った。
「たまたま立ち寄った旅人が、さる国の王女というのはどういうことだ? 鎧を装備しているのは、どういうことだ?」
そう言ってフィレット王女に視線を向けた。確かに、旅人というのは無理があったなと心の中で呟く。もう、ある程度の素性を明かさなければならないかなと考えていたそのとき、フィレット王女が口を開いた。
「その前に、貴様の名は! まずは名を名乗れ。殿下と呼ばれているところをみると、どうやら王族らしいな。王族は王族らしく気品のある振舞いをしたらどうだ」
……いや、それはあなたが言ってはダメでしょ。