第九百四十六話 だまって見ている青い空
「おかあさん! おかあさん!」
少女の絶叫が響き渡る。その彼女の目の前には、げっそりと痩せこけた女性が横たわっていた。
「誰だ、貴様ら!」
突然怒鳴り声が聞こえた。見ると、鎧を装備した女性がいっぱいに草を乗せたザルを小脇に抱えて立っていた。あれ……この女性、どこかで見たことがあるな。
「あなたは、フィレット王……」
ホルムが思わず口を開く。その彼に対して、フィレット王女は、人差し指を口元にもっていき、静かにするように促した。
「思いがけない……ここへはどうして?」
「説明は後だ。早くしないと、この子の母親が死んでしまう」
フィレット王女はそう言って目配せをする。少女はおかあさん、おかあさんと言いながらリンゴを母親の手に渡そうとしている。
「そのままでは食べられないだろう。すりつぶしてやらねばならない。ただ……すりつぶすものが、ないな」
フィレット王女はキョロキョロと家の中を見廻している。だが、それらしきものは見当たらない。
「リンゴをすりつぶすのですね。ちょっと貸してごらん」
俺はそう言うと、少女の母親の手にあるリンゴを取り、その傍らにあった皿を持つ。皿は少し汚れていたので、クリーンの魔法をかける。
「ふっ……」
ちょっと集中して、風魔法を発動させる。鉄をも切り裂く威力を持った魔法だ。それをリンゴの周囲だけに発動させる。一歩間違えば、周囲の者が怪我をするので、久しぶりに細心の注意を払いながら魔法を扱う。
シュルシュルという心地のいい音が聞こえる。と同時に、皿に見事にすりつぶされたリンゴが溜まっていく。
「ああ、全部すりつぶしてしまった。芯まで潰しているから、あまり美味しくないかもしれない」
「十分だ」
俺の言葉に、フィレット王女は皿をひったくると、スプーンで母親にすりつぶしたリンゴを食べさせていく。
「おかあさん、おかあさん」
少女は泣きながら母親の手を握っている。
「……自分の食べ物をすべて、この娘に与えていたのだ。こんなことは、このマツシレイではよくある光景となっている」
フィレット王女はまるで吐き捨てるように呟いた。
◆ ◆ ◆
「ここの領主はひどい。ここまで民を蔑ろにするのは、許せぬ」
母親の容体が落ち着いたのを見たフィレット王女は、俺たちに怒りをぶちまけた。男は兵隊にとられ、村には老人と女子供しか残っていない。ということは、畑を耕す男手がいないという状況だ。そうなると、収穫高は低くなるのは誰の目にも明らかだが、領主・ノズミは相変わらず厳しい税の取り立てを行っているのだと言う。
王女が一番怒っているのは、国替えが決まっているにもかかわらず、領主はこの村の作物を、まるで強奪するように収穫していったことだった。見事なほどに、この村には一粒のコメも残さなかったらしい。
この王女は、村の惨状を見て、見て見ぬふりができなくなり、山菜を採ってきて村の人々に振舞っているのだと言う。
「この村はまだいい。山には山菜があり、さらには、薬草となる野草も多く自生している。この母親は衰弱が進んでいるが、他の者たちは何とかこれで命を繋ぐことができている」
さっき、家の外でこの少女のリンゴを奪おうとしたジジイが元気だったのは、そのせいだったのかと、妙に納得してしまう。
「まあ、そういうこともあるだろうと考えて、ある程度の食料は持ってきたのですよ」
俺はそう言うと、無限収納の中から食料を取り出していく。みるみる少女の家は食糧で埋まっていく。
「なっ……これは……?」
「ああ、まだありますので、外で出しましょうか」
「そう、では、ない。貴殿は……誰だ?」
フィレット王女は目を丸くしながらホルムを見ている。ああ、俺は会ったことはあるけれど、この王女はケンシンの姿をした俺は知らないよね。
「こっ、こちらは、ケンシン殿です」
「ケンシン?」
「一応、アガルタ軍に所属しているケンシンです」
そう言って俺は頭を下げる。フィレット王女は相変わらず不思議そうな表情を浮かべている。
「ケンシン、というのは……」
「ああ、たまたまなのです」
「たまたま……?」
「ええ。このスタイルは元々ウエスギケンシンだと思ったので、ケンシンとなったのですけれど、本来はオオタニヨシツグなのですよね。で、ヨシツグにしようと思ったのですけれど、色々便宜上のこともあって、ケンシンとなったのですよ。……あれ? 違いますか?」
フィレット王女は目を白黒させている。ケンシンの名前の由来を聞かれたのかと思ったのだが、どうやら違ったようだ。
「つ……つまりは、アガルタ王にケンシンという名前を付けていただいたというわけです」
「な……なるほど。アガルタ王様の覚えめでたいお方というわけか。先ほどの様子を見れば、それは、大いに頷ける……」
ホルムが見事なフォローをしてくれた。そのお陰で、フィレット王女も何とか納得してくれたようだ。
「そ……それにしても、まさかフィレット王女がこんなところまでおいでになるとは、予想もしておりませんでした」
ホルムが口を開く。すると、王女の顔がぱああっと明るくなる。よくぞ聞いてくれたと言わんばかりの顔だ。
「そうなのだ! アガルタ王と貴殿が旅に出ることはわかっていたので、その動きを探っていたのだが、見事にまかれてしまった。私が知ったのは、出発の二日後だった。一体どうやって出発したのだ?」
「いや、まあ、それは……」
「今からサクに向かっても間に合わないと判断して、ここマツシレイに向かったのだ。ここでこうやって会えたということは、私の決断は間違ってはいなかったようだ」
「あの……アガルタの都から、ここマツシレイに来ようと思うと、一週間はかかると思うのですが、どうやってここまで来られたので?」
俺の質問に、彼女はグッと胸を張った。
「シャリオ殿だ」
「シャリオぉ?」
「あのお方に、この村の近くまで運んでもらったのだ」
「あの……あなたとシャリオはどう言うご関係で?」
聞けばフィレット王女はアガルタの色々なスタッフに話しかけており、そのなかの一人にシャリオがいたのだそうだ。彼女に相談したところ、自分なら飛んでいけると言うのでお願いをしたのだと言う。お願いをする方もする方だが、受ける方も受ける方だ。
ただし、その旅路は快適とは程遠いもので、手加減なしの速さで飛んでいくシャリオのために、顔に当たる風の凄まじさで、呼吸もままならなかったのだそうだ。しかもヤツは途中で飽きてしまい、彼女を草原の真ん中に放り出して帰ってしまったという。で、この王女は草原からこのマツシレイの地までおよそ四十キロを歩いて辿り着いたのだそうだ。
「で、アガルタ王はどちらにおられる」
「ああ、あれですよ。そのうち……」
「そのうち? お見えになるのだろうな?」
「ええ、まあ」
「そうか」
この王女の圧が凄まじい。こんなことを言っては何だが、この女性との縁談を受けなくてよかったと心から思った。
「まずは、食料を出しましょうか」
そう言って俺は外に出た。
外に出ると、先ほどのジジイたちが家の周りに集まっていた。俺はそいつらを横目に、食料出してやる。周囲から歓声にも似た声が起こるが、ジジイはそれを見てため息をついた。
「いかに食料を持ってきたところで、この村は終わりであることは変わりがない」
「何だ。どういうことだ」
「あの山をどうにかせねば、この村は終わりなのじゃ」
ジジイは俺が出した食料の中からリンゴを手に取ると、ガブリとそれにかぶりついた。そして、それを手に取ったまま黙って空に視線を向けた。それに釣られるようにして、集まった者たち全員が空に視線を向けた……。