第九百四十五話 赤いリンゴに唇寄せて
ノズミが治めるマツシレイの地は、ほとんど人が訪れない地となっていた。ここ数年の間に見舞われた川の氾濫、そこから来る作物不良、そして飢饉……。この土地の大半は大いに荒れ果てていた。その中でも、何とかそれらの災害を切りぬけた畑から上がる税で、ノズミ以下の家来たちは暮らしていた。むろん、人々は雪崩を打ってこの土地を離れようとしたのだが、ノズミは国境付近に兵士を配置して、それらの人々の流出を食い止めた。さらには、作物が採れる畑にも兵士を配置して、厳しく見張るなどして、徹底的に領民の流出を抑えていたのだ。
むろん、行動制限を受けていたのは領民たちであり、冒険者などがマツシレイを通行することに関しては咎められることはなかったが、それでも、至る所に配置された兵士たちからは、動きを監視され、少しでも怪しい素振りを見せると、たちまち捕らえられて尋問を受けた。そうしたこともあって、ここ最近では、旅人たちはマツシレイを迂回するようになっていた。
そんな中、この土地に二人連れの男たちが現れた。どちらかというと緊張感に包まれたこの土地にあって、二人の醸し出す雰囲気は、春風駘蕩なそれと言ってよかった。そのため、この男たちは実によく目立っていた。
通常であれば、兵士の尋問の対象になるところであるが、今のマツシレイは全域で国替えの準備で忙しく、普段は至る所で民衆の動きを見張っている兵士たちも、このときばかりは姿を見せていなかった。むろん、国境付近は未だ兵士が配置されており、マツシレイから出る者を厳しく監視していた。
「……予想以上に荒れ果てているな」
顔を覆面で隠した男が立ち止まり、誰に言うともなく呟く。隣の男も、訝しそうに周囲を見廻している。
「そうですね……。畑に人が見えませんね」
「まあ、畑に人がいないからこれだけ荒れてしまっているということなんだろうけどな。それにしても、このマツシレイという土地は変わっているな」
覆面の男はスッと顔を空に向けた。その視線の先には、大きな山がそびえていた。
「そう……ですね。山が……せり出しているのですね」
「山というのは真っすぐに立っているというイメージだけれど、あれは……山を削ったのかな? 何か、形がいびつだな」
「それにしても、高い山ですね」
「まあ、高い山なら、アガルタでもルノアの森を抜けたジュカ山脈というのがあるけれどな」
そんな会話を交わしていると、男の腹が鳴った。覆面の男はカラカラと笑い声を上げると、せっかくだからメシにするかと言って、近くにあった大きな石の上に腰を下ろした。
「腹が減っているのなら、そう言えばいい。そういう遠慮はなしだぞ、ホルム」
覆面の男はそう言って、どこからともなく大きな箱を取り出した。それはいわゆるお重になっており、中には色々な料理が詰め込まれていた。
「リコが腕によりをかけて作った料理だ。美味いぞ」
覆面の男はホルムと呼ばれた男にフォークを渡す。覆面の男は二本の短い木の棒を器用に使いながら料理を口に運んでいる。
「ん。美味いです。さすがはリコ様ですね。リノ……いえ、ケンシン殿がうらやましいです」
「そうだろう」
そう言ってケンシンと呼ばれた男は満足そうに頷いている。
「ホルムも早く結婚しろ。ウチのスタッフにいい女性はいないのか」
「いえいえ、私は一人で十分です。嫁さんを養うだけの甲斐性がありません。それに、私は軍人ですから、いつどこで死ぬかもわかりません。そんな私ですから、なかなか結婚には踏み切れませんね」
「そんなことを言っているヤツに限って長生きするんだ。いいなと思った女性には声をかけた方がいいぞ。まあ、迎賓館のサイリュースたちはあまりお勧めはしないけれどもな」
「そうですね。遊びで付き合うのであれば、全然問題ありませんけれどね」
その答えに、ケンシンと呼ばれた男はゆっくりと首を左右に振った。そんな会話を交わしていると、男の持ってきたお重の中はみるみる空になっていった。
「リンゴだが、食べるか?」
「いただきます」
ケンシンは懐から二つのリンゴを取り出すと、その一つをホルムに渡した。二人は山を眺めながら、そのリンゴにかぶりついた。
「……一度、メイを連れてきた方がいいかもしれないな」
「メイ様を、ですか」
「ああ。メイなら今のこのマツシレイの状況を正確に分析してくれるだろう。そして、復興までの最短の道のりを示してくれるはずだ」
ケンシンの声は力があった。それだけ、自信があるようにホルムには見えた。
「なにせメイは、クルムファルを復興させて、今の隆盛の基礎を作った女性だからな」
「そのお話しは、色々な方から承っています」
「この土地は、俺が予想していたよりも酷い。このままナノルらがここに移って来ても、飢えるのは時間の問題だ。それはアガルタから支援すればいいが、未来永劫というわけにもいかんだろう。この土地を立て直さねば、ナノルらの未来はない。それは、ここに生きている人々たちも同様だ」
ケンシンの言葉に、ホルムは大きく頷く。
ややあって、二人は立ち上がり、もうしばらくこの土地を見て行こうと話し合った。そのとき、ホルムが食べ終わったリンゴをポイと投げ捨てた。
「おい、行儀の悪いことをするんじゃないよ」
「あっ、すみません……つい……」
「拾ってこい。ゴミは持ち帰る……。これは鉄則だ」
「失礼しました」
そう言ってホルムは投げ捨てたリンゴを取りに行った。だが、彼はあるところまで来ると、ピタリとその動きを止めた。
「どうした、ホルム」
ケンシンの声にホルムは反応を示さない。訝しがりながら彼の傍に近づくと、何とそこには、小さな女の子が、ホルムの投げ捨てたリンゴに一心不乱に吸い付いていた。
食べるところのないところまで食べきってしまったリンゴを吸っている。何とも異様な光景だった。そして、二人の男に気がついた彼女はビクッと体を震わせて、小さな声で呟いた。
「……ゴメンナサイ」
「ああ、いいよ。お腹がすいているんだ。よかったら、これも食べな」
ケンシンは懐からリンゴを差し出した。少女は大きく眼を見開きながら、リンゴとケンシンを交互に眺めている。
「あっ」
少女はケンシンの手にあったリンゴを、まるでひったくるようにして受け取ると、脱兎のごとく駆けだした。ケンシンとホルムは顔を見合わせていたが、やがて顔を見合わせると、無言のまま少女の後を追った。
「おい待て! お前、それは何だ! こっちの寄こせ!」
少女はそこからすぐの集落に入っていった。彼女の姿が中に消えると、しわがれた男の声が響き渡った。
「オツハ……それをこっちの寄こせ!」
少女の目の前に両手を挙げ、通せんぼをするような形で老人が立ちはだかっている。そのまえで少女はリンゴを大事そうに抱えて、決してそれを渡さぬ覚悟を見せている。
「これは……お母さんに、あげるの!」
「生意気なことを!」
「イヤッ!」
老人が少女に覆いかぶさるようにしてリンゴを奪おうとした。そのとき、男の大きな声が響き渡った。
「待てぇぇぇぇぇぇぇい!」
だが老人は止まらなかった。小さな声で寄こせ寄こせと言いながら、少女のリンゴを奪おうとした。ケンシンはツカツカと老人の許により、白髪の髪を鷲掴みにした。
「待てと言っているんだから待ちなさいよ! 恥をかくだろうが!」
「なっ、何じゃお前は! 放せ! 放さんか! 髪の毛が抜けるじゃろうが!」
「抜けるだけの髪の毛がねぇだろうが」
ケンシンと老人がもみ合っている隙に、少女はその場から離れ、すぐ前にあった家に飛び込んだ。
「ええい! そんなにリンゴが欲しけりゃくれてやるよ。ほらよ!」
老人から手を放し、懐からリンゴを取り出すと、それをポンと男に投げたケンシンは、少女が入った家に向かう。その中には、驚愕の光景が広がっていた……。