第九百四十四話 日延べ
クラパトは目の前に座る主人・ノズミに向かって報告を続けていた。だが、その主人の視線は宙を泳いでおり、誰の目から見ても、心ここにあらずという状況であることは明らかだった。しかし、彼はそれでも、報告を続けねばならなかった。
「……今すぐに手を打つべきであると愚考します」
そう言ってクラパトは頭を下げたが、いつまで経っても主人は言葉を発しなかった。ややあって彼が頭を上げると、主人・ノズミの視線はまだ、宙を泳いでいた。
「……それで?」
それでも何もなかった。今、起こっている出来事は、放置すれば間違いなく己の身を破滅させるのだ。その主人たるノズミの身が破滅するということは、クラパト以下、彼に仕えている家来たちすべてが路頭に迷うということなのだ。
このクラパト自身、サクの民衆がこぞって移転の準備を整えているという報告を聞いたときは、俄かにそれを信じることはできなかった。だが、次々と入って来る情報は、それが真実であることを示していたし、そのサクの現領主であるナノルの背後にはアガルタが付いているという噂まで出ているという。つい先日、ナノルの家来であるコリタがアガルタに直訴に及び、追い返されていることは知っている。その行動は当然、門前払いであり、命を助けられただけでも奇跡であると考えていた。とはいえ、コリタがアガルタと何らかの関わりを作らなかったという根拠もなく、まことしやかに伝わってきたアガルタとの関わりを、クラパトは一笑に付すことはできなかった。
「まずは、宰相・タイロ様に報告を。併せて、皇帝陛下にも報告なさる事が肝要かと存じます」
「よきに計らえ」
主君・ノズミは忙しそうに右足を動かしている。いわゆる貧乏ゆすりだ。心が落ち着いていないことは誰の目から見ても明らかだ。クラパトは主人の心の中が手にとるようにわかっていた。
ノズミははやくサクに移りたいのだ。そして、今、サクの畑に実っている作物を収穫したいのだ。主人の頭の中には、サクの収穫高と、それを売った時の売り上げ。その中から誰に、どれだけの賂を送ることが正確に計算されていることだろう。彼はすでに次期宰相に内定している。あと一歩でこの国の権力を一手に握ることができる位置にいる。今が一番大事なところだ。ここでつまらぬしくじりを犯して、今までの苦労を水の泡とするようなことがあってはならない。ノズミと同様、このクラパトも同じことを考えていた。
様々な有力者に賂を渡してきたノズミであるために、それを生み出すために領民は重税に苦しめられてきた。と同時に、家来たちも、本来貰うべき給金を減らされてきたのだ。言わば、家来たちも貧苦に喘いでいたのである。そのため、それに耐えられず、彼の許を去ったのは一人や二人ではなかった。
ただ、ここ数年は、賂を送る側からもらう側になり、それなりにノズミ家の財政は潤いを見せていた。さすがの主君も、これまで貧苦に耐えてきた部下たちに対しては、本来の給金を払うようになり、貰い物などを分け与えるなどをするようになっていた。
とはいえ、領内の乱れは限界に達しており、領民たちの不満は爆発寸前であり、いつ騒乱が起きてもおかしくない状況だった。
ノズミをはじめとした家来たちは、一刻も早く豊かな土地であるサクに移りたかった。準備は整っていた。もう、明日にでも出発しようとしていたそのときに、このような報告が舞い込んできた。家来たちは混乱の極みにあった。
もうひとつ、ノズミたちがこの地を一刻も離れねばならない理由がもう一つあった。民衆からの襲撃だ。彼らは、この地の作物を根こそぎ持ち去ろうとしていた。それは、民衆には絶対の秘密であったが、それは隠しても隠し果せるものではなかった。
今のところ、民衆が蜂起するという予兆は見られなかったが、これまでのことを考えれば、道中、彼らが蜂起した民衆に襲われる可能性は十分にあった。とりわけ、家宰としてノズミ家の万事を取り仕切る立場にあるクラパトは、その懸念を強く持っていた。
目の前の主人・ノズミも同じことを考えていたのだろう。やせ細った青い顔で、相変わらずしきりに足を動かしながらじっとこちらを見ている。
「今すぐ、出立なさいますか?」
クラパトの言葉に、ノズミは無言のまま反応を示さなかった。彼としても、すぐに出立したい気持ちではあるものの、今の状況では、それは難しいと言えた。何しろ、サクに住まう者たちおよそ五千人が大挙してこの地にやってくると言うのだ。それだけでも街道は大混雑に陥り、ノズミたちの進行を大いに妨げることは誰の目から見ても明らかだった。それに加えてサクに人がいなくなるのである。その土地を、ノズミの家来たちで維持・管理していくのが不可能であることは、彼らもよくわかっていた。
「……まずは、事の真偽を確かめよ」
ノズミは小さな声で呟いた。クラパトはハッと一礼すると、素早く主人の前を辞した。
ノズミの治める領地からサクまでは徒歩で一日の距離だ。行って行けない距離ではない。だがここは、山の中にある盆地だ。ここからサクまでは切通しのような細い道を進まねばならない。先ほどの伝令の話では、すでに領主・ナノルは出立の準備を完了しつつあるという。彼らが出立してしまっては、確実にどこかでかち合い、大混乱を引き起こして進に進めず、退くに退けぬ状況となるのは必定だった。迂回して向かうという方法もあるにはあるが、それではサクへの到着が数日遅れることになるのだ。
クラパトは家来の一人に帝都にいる宰相・タイロに急使を立てた。ここから帝都までは馬で半日の距離だ。駿馬で飛ばせば、さらに時間は短縮できる。彼は使者に、宰相に現在の状況を伝えると共に、ナノルに対して行動を止めるように、領民を家に帰すように命令を下してもらうように伝えるように命令した。男は、承知しましたと言って急いでその場を後にした。
クラパトはいったん外に出て、周囲を見廻す。静かだった。本当に人が住んでいるのかと疑いたくなるほどに、静寂が周囲を支配していた。そこに一陣の風が吹いた。思わず彼は腕を顔に当てながら顔を背ける。
土と埃に加えて、何ともイヤな臭いが鼻を衝く。彼は秘かにこれを貧困の香りと名付けていた。死臭にも似た、何とも形容しがたい臭いで、まるで、ノズミとその家来たちがこれまで領民にしてきた行為を呪うかのような感覚を覚えるようなものだった。
一刻も早くここを離れたいと思った。
「……日延べ、か」
だが、心とは裏腹に、そんな言葉が口をついて出た。しかし、現実的には、それしか方法がなかった。
その彼の決定にノズミは何も言わずに、バツの悪そうな表情を浮かべながら黙って頷いた。口がへの字に曲がっていた。機嫌の悪い時に見せる典型的な表情であり、こういうときの主人は、周囲の者に当たり散らすことがままあった。
「一体、サクにはいつ立つつもりじゃ!」
「ハッ。アカロを使者に遣わしました。あの者の馬であれば、半日もかからずに王都に到着するでありましょう。そこで宰相様にナノル様に領民を家に戻し、ご家来のみを連れてこちらまで参るように命令していただきます……」
「儂は、いつ立つ、と聞いた。具体的に、何日後に、出立するのだ」
「ハッ。二日後と考えております」
「二日……」
「帝都からナノル様の許に使者が到着するのに半日かかると考えますと、そのくらいの時間はかかるかと……」
「それ以上は、待たぬ」
そう言ってノズミはさも、不機嫌と言わんばかりの表情を浮かべながらその場を後にした。その様子を見送りながらクラパトは、大きなため息をつくのだった……。