第九百四十三話 荒唐無稽な話し
「とはいえ、早く収穫しないと、食べられるものも、食べられなくなるんじゃないか?」
ホルムが口を開く。確かに、それはそうだなと頷く。すると、今まで隣で静かに酒を飲んでいた二人組が口を開いた。
「それよ! そのことだよ! 今が一番の収穫時期なんだ。今すぐにでも収穫しねぇと、虫や鳥に食べられちまう。それに、天候のこともあるしな」
男たちはノズミの横暴ぶりに怒りを覚えている一方で、一年かけて作った作物を収穫できない悔しさに耐えていたのだ。
「とはいえ、このまま指をくわえているわけにもいかんだろうしな……」
「俺たちもどうにかしたいが、どうしようもねぇ。皆で首をくくるしかねぇ」
「別に首をくくることはないだろう」
ホルムとオヤジがそんな会話を交わしている。俺は腕を組みながら、天を仰ぐ。
「その、ノズミという新しい領主から下された命令というのは、作物を収穫するな、という点だけか?」
俺の言葉に、オヤジはキョトンとした表情を浮かべた。
「そうだが。それがどうかしたか?」
「いや、理屈を言えば、命令されたんだから、それは聞かなきゃいけないが、命令されていないことなら、別にやってもいいんじゃないかと思っただけさ」
「……何が言いたいんじゃ?」
「この国では、人々は引っ越しをしちゃいけないという決まりはあるのかい?」
「いや、別にないが……」
「じゃあ、皆で領主と一緒に引っ越せばいいんじゃないか」
「は? お前さん……何を?」
「いや、このサクの者たちは、今の領主であるナノルを慕っているんだろう? じゃあ、皆で一緒に、新しい領地に引っ越せばいい。民を慈しむ慈悲深い領主様とまた一緒に暮らせばいい」
「あのな、お前さん。儂らがナノル様と共に新しい領地に移るとしても、どうやってそこで暮らしていくんじゃ! 向こうではすでに作物は収穫されておるんじゃ。それに、家はどうするんじゃ。思い付きで勝手なことを言うな!」
「いや、何も本気で移れと言っているんじゃない。そうすりゃ、その、ノズミという新しい領主は困るんじゃないかってことさ」
「どういうことじゃ?」
「この村の畑……。ここの小麦を収穫するだけでも相当の人数と労力がかかるだろう。おそらく、このサクという土地は、至る所でこんな風景が広がっているんだろう? サクに住む全員がこの土地を離れてしまうとなれば、ノズミは連れてきた家来たちだけで収穫をしなきゃいけなくなる。それはそれで、かなり困ることになると思うけれどな?」
「……いっ、いや、待て。それでは、皇帝陛下に叛くことになる」
「叛く? 何でだ。このカイク帝国には、好きなときに主君を変えていいという考えがあるのか?」
「そんなことはない。決して二君に仕えず、というのが、この国の掟だ。そんなことは、この世界中どこの国でも同じだろう」
「と、なればさ、貴族? 騎士たち? がニ君に仕えずと言っているからには、俺たち庶民も二君に仕えるつもりはないと言えば、お前さんたちを罰することはできないんじゃないか?」
「……なるほど。イヤ待て。それでは単にフリをするだけでなく、本当に移転する動きを見せねばならん。最悪の場合、我々はこの地を捨てて新しい土地で生きねばならん。そうなればまず、食料の問題がある。それに、生きていくための金も必要になる」
「それだったら、アガルタに頼めばいい」
「アガルタぁ?」
「アガルタに借金と食糧支援を頼めばいい。あの国は心の広い国だ。きっと融通してくれることだろう」
「あのな、お前さん。簡単に言うが、金を借りる、食料を支援してもらうためには、それなりの代償が必要なのだ。このサクにそんなものはない」
「いや、別にいらないよ。出世払いでいい」
「出世払い?」
「俺たちが天下を取った暁には、この世界の半分を差し上げます、とでも言えばいい」
「何を言うているんじゃ」
「幸か不幸か、俺たちはアガルタ王にツテがある。お前さんがその気なら、アガルタ王に伝えておいてやる。なぁに、心配はいらない。大丈夫。大丈夫だ。お、善は急げだ。すぐにアガルタ王に手紙を書こう。すぐに返事が返ってくることだろう。楽しみに待っておくといい」
そう言って俺は立ち上がり、ホルムを促して店を出た。
「一旦、都に帰るか」
そう言う俺に、ホルムはもう少し様子を見ましょうと言う。彼に導かれるまま、建物の陰に隠れて、店の様子を窺っていると、俺たちの隣に座っていた男たちが転がるようにして店から飛び出してきて、走って去って行った。そのすぐ後から、店のオヤジがエプロンを外しながら慌ただしく出てきた。彼はエプロンを地面にかなぐり捨てると、先ほどの男たちとは逆の方向に向かって走って行った。
「私はここで見ていますから、リノス様は都に帰られて……」
「了解」
そう言って俺は転移結界を発動させた。久しぶりに、心が躍っていた。
◆ ◆ ◆
店のオヤジが帰宅したときは、すでに夜も更けていた。店の前には、ここを出るときにかなぐり捨てたエプロンが転がっていた。彼はそれを拾い上げると、パンパンと手で叩いてほこりを払った。
彼は一目散に領主・ナノルの屋敷を目指し、先ほど、得体のしれない二人組の男から授けられた策を提案した。ナノルも、周囲に仕える者たちも、その提案に目を丸くして驚いた。だが、ナノルはそれを許さないと言って、言下にその提案を退けた。だが、オヤジは諦めなかった。すでに、村の者たちはもちろん、このサクの民衆はことごとく領主様についていくつもりであるし、もうすでに、その準備に取り掛かっていると言って胸を張った。
もちろん、そんな証拠はどこにもなく、それはオヤジの想像に過ぎなかった。しかし、彼には自信があった。無理難題を押し付けてくる領主より、領民に慈悲を与えてくれる領主がいいに決まっている。それに、根拠はないが、このナノル様と共にいられれば、自分たちは幸せに生きていけるという確信があった。その思いは、自分だけでなく、サクに住む領民全員が同じ気持ちであると彼は信じていた。
このサクに住む人々には、新領主であるノズミからもう一つの命令が下されていた。それは税率のことであり、それは収穫の八割を領主におさめるというべら棒なものであった。
これまでのサクの税率は、収穫の三割を領主におさめるというものだった。それに、このカイク帝国内であっても、税率は収穫の六割を徴収するというのが一般的であり、その点から見ても、このノズミという領主の横暴ぶりがよくわかるし、一方で、現領主であるナノルが、いかに領民に慈悲を与えているのかがよくわかる。そうしたこともあって、すでにサクの民衆の心は、ノズミからは完全に離れていたのである。
このオヤジの提案に、ナノルの周囲の者たちは喜んだが、ナノル自身は頑として領民が新領地に移ることを許可しなかった。その理由は、オヤジが懸念したことと同じで、たとえ領民を連れて行っても、そこで彼らを食べさせるだけの食料も養うだけの金もないということだった。ナノルは、お前たちの心は嬉しいといい、気持ちだけありがたく受け取っておくと言って寂しそうな笑みを浮かべた。オヤジはアガルタからの支援を提案したが、ナノルはゆっくりと首を左右に振った。
「でっ、では、アガルタからの支援を取り付けられれば、我々はお供してもよろしゅうございますな?」
オヤジの必死の説得の甲斐あって、ナノルはゆっくりと頷いたのだった。
もとより荒唐無稽な話であることは十分に承知していた。だが、オヤジはこの作戦は確実に上手くいくと踏んでいた。あのノズミをギャフンと言わせられると同時に、ナノル様の国替えも阻止できる。ただ、それには、アガルタからの支援の約束を取り付ける必要があった。
……こりゃ、何とかして、アガルタからの書状を作らねぇとならなぇねな。
そんなことを心の中で呟きながら、彼は店の扉を開けた。
「あん? 何だこれは?」
テーブルの上に、一通の書簡が置かれていた。それは高価そうな紙が用いられ、丁寧に蝋印までもが施されていた。オヤジはそれを無造作に開けて中を見た。
『サクの領主、ナノル殿に対して、五千人分の食料を一年間融資することを約束します。それに伴い、併せて金一万を援助することも、ここに約束します。
アガルタ王国国王 バーサム・ダーケ・リノス』
「フッ、フフフフフ。フフフフフ」
オヤジは肩を震わせて笑い声を上げていたが、やがて踵を返すと、店を出て、再びナノルの屋敷に向かって走り出した。何だか、体が軽かった。まるで子供の頃に戻ったような感覚を覚えながら、彼は真っ暗な道をひた走った……。