第九百四十二話 サクの村
俺はしばしの間絶句してしまった。それほど、目の前に広がる光景が想像を超えた絶景だったからだ。それは、隣に控えるホルムも同様で、彼もまた、言葉を発することなく、その場に立ち尽くしていた。俺たちの目の前には、地平線の彼方まで広がる小麦畑が広がっていたのだ。
小高い丘に小さな森があり、転移結界はそこに張られていた。一歩森から外に出ると、見渡す限りの小麦畑だった。これだけの大農園があると言うことは、サクという土地は想像以上に豊かなのだなと心の中で呟いた。
俺もホルムも、結界で別人の姿に見せていて、顔バレする心配はない。このままここで立ち尽くしていても仕方がないので、取り敢えず歩くことにした。だが、歩けども歩けども景色が変わらない。こんなことならイリモを連れて来ればよかったと反省したが、今更戻るのも面倒くさいし、ホルムがもう少し歩けばこの畑を抜けられますという言葉を信じて歩いてみたが、やはり景色は変わらない。結局、畑を抜けるのに一時間以上を要した。ホルムのもう少し歩くという言葉は今後、信じないことにしよう。
畑を抜けると、目の前には小さな村があった。奥の方には大きな井戸があり、どうやらあそこがこの村の中心地であるようだ。しかし、村人の姿は見えない。人の気配はするので、皆、家の中にいるのだろう。とはいえ、まだ真昼間だ。畑を歩いていても人には出会わなかったし、今の村のこの状況……不気味というより、何だか変な違和感を覚える。
「とりあえず、昼食にしましょう。その土地のことを知るには、メシ屋に行くに限ります」
ホルムはそう言って笑みを浮かべた。
そのホルムが見つけてきたメシ屋というのは、あまり人のいない店だった。店主が忙しそうに鍋を振っているが、あまり客のいないこの店で、懸命に何を作っているのかと不思議に思う程に、男は一心不乱だった。焼き飯でも焼いているのか、鍋の上には、繰り返しコメのような食材が何度も舞っていた。
「今、大丈夫かい?」
ホルムがオヤジに声をかける。男は相変わらず忙しそうに鍋を振りながらジロリとこちらに視線を向けた。ややあって男はクイッと顎をしゃくった。どうやら好きなところに座って注文しろと言っているらしい。
店はオヤジの前に設えられたカウンターの席と、その前に、四組のテーブルと椅子が置かれていて、そのうちの一組に、二人の男が酒を飲んでいた。ホルムはその男たちの隣のテーブルに向かい、椅子に腰を下ろした。俺もそれに倣って、ホルムの前に座る。
「オヤジさん、この店の名物は何だい」
「……エルカンサだ」
「じゃあ、それを二つくれ。あと、酒も欲しいな。何かあるのかい?」
「……ズインワーレとソウソロだ」
「……初めて聞く名前だな。どんな酒だい?」
「……ズインワーレは、その隣の男が飲んでいるものだ。知りたきゃ飲ませてもらえ。ソウソロはジャガイモから作った酒だ」
オヤジの言葉に、ホルムは隣の男たちに視線を向ける。二人とも俺たちに視線を向けているが、そのうちの一人が、無言のまま目の前に置いてあった瓶を差し出した。
「どうも」
受けとったはいいが、それを飲むためのコップがない。まさかラッパ飲み出もするのかと思っていたところ、ホルムはスッと俺に向けて手を挙げると、懐から紙を取り出して、瞬く間にコップを折り、そこに酒を注いで一気に飲み干した。
「……くう~っ。強い酒だな」
ホルムはそう言って顔をしかめた。そして目で俺に飲んでみますかと訴えてきたので、頷くと、彼は再び懐から紙を取り出してコップを折り、酒を注いで俺に差し出した。
「ガオベッ」
……すごい声が出てしまった。いや、本当に強い酒だったのだ。香りがアルコールそのもので、それだけでちょっとヤバイなと思っていたのだが、口の中に入れるとそこが焼けるほど熱く、飲み込むと喉、胃の順番で焼けた。ジンとか、ウオッカとかに相当するような酒だと思う。聞けば、ソウソロという酒はこれよりはまだ、度数が低いらしいので、それを貰うことにする。
「この村は初めて来たんだが、すごい穀倉地帯なんだな。話には聞いていたが、まさかこれほどとは思いもよらなかったよ」
ホルムが誰に言うともなく口を開く。だが、その声に反応するものはいない。そうこうしているうちに、オヤジが二枚の皿と一本の瓶を持ちながらこちらにやって来た。
「はいよ」
不愛想にオヤジは皿を俺たちの前に差し出す。ナンのような薄く大きなパンの上に、スパイシーな香りのする肉と野菜をいためたようなものが載っている。食べてみると、独特な風味と辛みがあるが、これはこれで美味しいものだ。それに、出されたソウソロという酒も、先ほどのものとは全然違うもので、それなりに強い酒ではあるけれど、とても香りがいい。言ってみればウイスキーのような酒と言ったところか。ただ、それなりに強い酒なので、俺としては水割りロックにして欲しい酒で、なかなか飲み切るのに苦労してしまった。
「俺たちはしばらくこの村に滞在する予定なんだ。宿屋はどこだい?」
この店のオヤジの不愛想さと、隣の客たちの口の重さに、このままここに居ては時間の無駄だと判断したのか、ホルムは場所を変えようとした。だが、そんな彼にオヤジは料理の手を止めると、ジロリと俺たちを睨みつけた。
「滞在? ニ、三日ならいいが、一週間以上滞在すると言うのなら止めておくことだ」
「何だい? どうしてだ?」
「一週間後には、この村の領主が変わるからだ」
「領主が変わる?」
「ああ。一週間後に新しい領主がこの村にやってくる。そして、この村を含めたサクの村や町は大きな騒動が巻き起こるだろう。だから、止めておけと言っているんだ」
「そりゃ、穏やかじゃない話だな……」
聞けばサクは、一週間後に新しい領主であるノズミが着任する予定であり、この村にも新しい領主がやってくるのだと言う。そのノズミはつい二日前にこの村に使者を遣わしてきて、畑の収穫については、ノズミの許可を得てから行うようにと通達してきた。さらに驚くべきことは、少しでも収穫した跡を見つけた場合、その畑の持ち主と村の代表者の首をことごとく刎ねると言ってきたのだそうだ。これはつまり、現領主が畑の作物をごっそり新領地にもっていくことを防ぐためであると考えられるが、畑の持ち主と村の代表者の首を刎ねる、などというのはどういう思考回路を通ればそんなことになるのか、理解に苦しむ話だ。
そして、さらに驚く話は、ノズミはノズミで、今治めている領地での収穫作業を終えて、それらをこのサクに持ち込もうとしているのだと言う。ということは、現領主であるナノルは、裸一貫で新しい領地に赴かねばならなくなるということだ。そんなことをやってのけるノズミという男は、その段階で下品極まりない男であると言う外はなく、そんな男に仕えねばならないこの村とサクの人々に俺は心から同情した。
「アガルタへの直訴が上手くいってりゃ、もう少しマシな状態になったかもしれねぇがな」
アガルタ、と聞いて俺とホルムは思わず顔を見合わせた。そんな俺たちの様子を察したのか、オヤジはずいっとその体を俺たちの方に寄せてきた。
「俺たちゃアガルタにこの領地替えを止めさせてくれと願い出たのさ。あの強国がそれをみとめたとあっちゃ、さすがに皇帝陛下も聞かにゃならなくなるだろう。アガルタとの関係は悪くなるかもしれねぇが、そんなことより、俺たちは明日のことを考えなきゃならねぇからな」
「ああ……そう、です、よ、ねぇ……」
……俺はどうすればよかったんだ?