第九百四十一話 二人の共通点
結果的に、フィレット王女の要望は、お断りする形となった。それはそうだ。彼女を同行させるとアガルタの機密事項が漏れる可能性が高いし、そうしたらそうしたで、色々とややこしいことが起こるかもしれない。それに、俺とホルムの二人連れに女性が加わるのだ。俺は彼女に手を出さない自信があるし、ホルムもそんな冒険はしないだろうが、リコをはじめとする妻たちの心証はよろしくはないだろう。きっとリコなどは必ず、側室に加えるのですか、と聞いて来るに決まっている。俺は家族の中に波風を立てたくないのだ。
だが、この王女は諦めなかった。最後の最後まで食い下がってきた。挙句には、お二人の後をついていくだけならいいだろうと言い出す始末で、何とも聞き分けのないというか、わがままというか、お姫様らしいお姫様だ。
一方で俺は、このフィレット王女に対して、不思議なくらいに不快感は持たなかった。一体何故だろうと考えてみたところ、彼女の振る舞いはある意味で、エリルお嬢様によく似ていたのだ。あのお嬢様なら、きっとこんな会話になるだろう。大きく違うのは、フィレット王女は暴力に訴えないという点だ。あのお嬢様なら間違いなくヘッドロックをかけられる。そして、俺がわかりましたと言うまで様々な嫌がらせをするだろう。
そんなことを考えていると、ふと、あのお嬢様との一場面を思い出した。
あれはルノアの森で狩りをしていた時のことだった。お嬢様が切り株の風呂に入って帰ると言って聞かなかったのだ。もうすぐ日も暮れるし、早く帰らないとエルザ様が心配しますからと説得したが、彼女は頑として聞かなかった。
「お風呂は今度にして、さ、帰りましょう」
そう言って連れてきた馬に荷物を載せて帰り支度をして、さあ帰りましょうと彼女に視線を向けると、何とあのお嬢様は全裸になっていた。
「ちょっ、なっ、おっ、お嬢様!?」
「風呂に入って帰るのよ!」
「とっ、とりあえず、服を、着て、ください」
「さ、行くわよ」
バカじゃないのかこの女! と俺は心の中で叫んでいた。それなりに若い――この言葉を発した段階でエリルお嬢様からお仕置きを食らうが――女性が、一糸まとわぬ裸で腕を組んで仁王立ちしているのだ。これはビックリする。エロさや色気は微塵もない。ただ、驚きと少しの恐怖感があるだけだ。
男というものは、女性が嫌がる素振りを見せると興奮してしまう生き物である気がする。ここで恥じらいの一つでも見せてくれれば、俺も少しは色気を感じたかもしれない。だが、目の前に立っている女性は、ある意味で横綱だ。一番ぶつかり稽古だ、胸を貸してやるからかかって来いと言わんばかりの態度を取られれば、興奮もなにもあったものではない。
全然関係のない話だが、前世の頃、大阪で電車に乗っていたときに、痴漢行為があったらしい。らしいというのは、俺が直接見たのではないのだが、電車に乗っていると、突然おばちゃんの大阪弁が車内に響き渡ったのだ。
「女の体をさわりたいんやったら、ワタシのを触らしたるワ! 私のチチ揉まんかい! チチ揉ましたろ!」
女性は男の腕を掴んでそれを自分の胸に押し当てていた。当然男――初老の男性だったと記憶している――は狼狽えまくっていた。その二人の間には、困った表情を浮かべた若い女性が立ち尽くしていたが、その彼女はオバチャンに小さくお辞儀をしていたのだった。
電車が駅に着くまでずっと、車内に「チチ揉ましたろ」の声が響き渡っていたのを鮮明に覚えている。ある意味で、こうした堂々とした態度を取られれば、男の邪なスケベ心もなくなるんじゃないかとそのときは思ったのだ。
結局、俺はお嬢様に服を着てもらう代わりに、切り株風呂に向かうことになった。帰りは当然遅くなった。心配するエルザ様にエリルお嬢様は詫びるどころか、リノスが帰りたがらなかったのよと言い訳する始末だった。ただ、救いはそうした彼女のことをエルザ様は瞬時に見抜いておられ、エリルが去った後、俺にねぎらいの言葉をかけてくださった。ああ、何ていいご主人様なのだろう。今、思い返してみても、涙が出る。
話を元に戻す。
そのフィレット王女は、俺とホルムをストーキングすると声高らかに宣言した。このアガルタ軍本部の前で俺たちの出発を待つのだそうだ。これには俺もホルムも、苦笑いを浮かべる他はなかった。
こうした彼女の態度に、同席していたルファナちゃんはずいぶん怒っていた。失礼極まりない態度だと後で言っていたらしい。彼女も彼女で、サルファーテ王国の王女として教育を受けてきたし、フィレット王女と同様、軍人の道を選んだ女性だが、彼女はやはり、礼儀を第一に重んずるべきだという考えであるために、このお転婆王女の振る舞いは看過できぬものがあったようだ。そのためか、彼女は折に触れてフィレット王女に、「お忙しいのではありませんか」、などと、京都のお茶屋のおかみさんのようなやり方で窘めていたが、王女には全く通じてはいなかった。
一方、フィレットは、興奮を抑えきれずにいた。久しぶりに面白そうだと思う出来事に心が躍っていた。
アガルタでの暮らしは大満足だった。マトカルやラファイエンスとの触れ合いは、彼女にとってとても勉強になるものばかりだった。だが、ここに滞在する時間が長くなれば長くなる程、家来たちに連れ戻される可能性が高くなるのだ。彼女は、家来たちに行先も告げずにこのアガルタに赴いていた。
むろん、連れ戻そうと家来たちがやって来たところで、彼女は国に帰るつもりなど毛頭なかった。とはいえ、家来たちがやってくれば、間違いなく彼らはここに滞在し、自分を監視してくることだろう。監視するだけならばまだいい。折に触れて、姫様これはいけません、あれはなりませんと言って、行動を制限されるのが、彼女は何よりも耐えられないことだった。
……一体、自分の力がどこまで通じるのか、試してみたい。
彼女は幼い頃から、心の奥底でそんな感情を抱えて生きてきた。国の外では人知を超えた存在があり、常識では考えもつかないスキルを持った者が多くいると聞いた。普通の者であれば、そのまま聞き流す事柄だが、王女はそうではなく、そうした者たちと対等に渡り合ってみたいという欲望を持った。
彼女は幼い頃から努力家で勤勉であったのも、そうした感情が突き動かしていたのが理由であった。そのため、両親をはじめとする周囲の人々は最初、従順な姫を大いに歓迎していたのだが、長ずるにしたがって活動範囲を広げ、活発な動きを見せる彼女に、大いに戸惑うようになっていった。
この食堂にアガルタ王をはじめとする、アガルタの幹部たちが顔を見せることは当然フィレットは知っていた。ここに来れば何か面白い話が聞けるかもしれないと予想していた彼女にとっては、まさしく願ったり叶ったりの話しが目の前で行われていたのである。
食堂を出た彼女はすぐさま街に出て、旅の準備に取り掛かった。と同時に、情報収集も欠かさなかった。それと予想を付けた店に、アガルタ軍から大量の発注がなかったのかを聞いて回っていた。
フィレットは考えていた。まさか、あの二人は今すぐ出発するわけではあるまい。早くて三日後、一週間以内にはサクに赴くであろうと予想していた。お忍びとはいえ、まさかリノスとホルムの二人連れで旅をするわけではあるまい。数人の護衛をつけるはずだ。その準備をするのには、ある程度まとまった商品を発注しなければならない。出発はその時だと考えていた。
だが、待てど暮らせど、商店にそうした注文がなされた形跡はなかった。彼女がリノスたちがサクに赴いたことを知ったのは、出発の翌日のことだった……。