第九百四十話 アガルタ軍
この女性の顔は知っている。知っているが、名前が出てこない。あの……その……ほら、あれだ。ほれ、言うてみんかい……。
そんな俺の様子を、訝しんでいると感じたのか、女性はスッと顔色を変えると、一歩後ろを下がり、腰を折った。
「大変失礼しました」
……失礼なのは俺の方ですよ、という言葉を飲み込む。思わず周囲に視線を向けると、マトカルが呆れた表情を浮かべていた。彼女に、この人の名前何だっけ、と聞きたい気持ちはあるのだが、それをしてしまうとさらに失礼なことになってしまう。俺はオホンと咳払いをして、目の前で頭を下げている女性に向き合う。
「あの……お名前は、何でしたっけ?」
「……」
女性が驚いた表情を浮かべながら俺を見た。まあ、そりゃそうなるよね。
「ふ……フィレットと申します。ネルフフ・エリサ・フィレットと申します」
「あ……いや……そ、それは、それは、存じております。お尋ねしたいのは、御父上のお名前を……」
「あっ、ああ、それは、大変失礼しました。父の名は、ネルフフ・ガング・ツアールトでございます」
「そ、そうそう。そうですよ、そうでした。ツアールト様。ツアールト様でした。いや、そのお名前をド忘れしてしまって大変お恥ずかしいことです。この後、ネルフフ王様にお手紙を書こうとしておりまして、どうしてもそのお名前が思い出せなかったのですよ。それで、フィレット王女のたまたま、たまたま、俺の所に来てくれたので、失礼を顧みずにお尋ねしてしまいました。ご無礼の段、お許しください。あ、こんなところでそんな話をしないで、別室に呼んでお話を聞けばよかったのですけれどもね。あ、それでは、何だか畏まった雰囲気になってしまいますか。いや、まずは、お許しください」
何言ってんだ、俺? と心の中で呟く。きっとフィレット王女もそう思っているに違いない。だが、彼女はニコリと微笑むと、満足そうに頷いた。これは……助かったの、か?
「それでしたら、私にお話しいただければ、父にその旨をお伝えします」
「あっ、いや……その……俺宛てに届いた手紙ですので、一応、礼儀としましては、俺の方から手紙を送るべきかと存じますので、その旨、ご承知おきくださいませ」
「……承知、しました」
ああ、また怪訝そうな表情になってしまった。実は俺はこの女性があまり得意ではない。得意という表現は少しおかしいが、この父上から王女を俺の嫁に貰って欲しいという手紙が届いていたのだ。彼女にその意思はなさそうだし、俺もその気はないので、お断りの手紙を出さねばならないところだったのだ。とはいえ、そんな女性であるので、何だか知らないが、彼女と話をするときには照れてしまうのだ。
このフィレット王女は、突然アガルタの都にやって来て、勉強させて欲しいと言ってきた。紹介状も、供の者も連れずにたった一人で、だ。マトカルが顔を知っていたので事なきを得たが、普通だったら追い返していたところだ。
勉強、と聞いて俺はアガルタ大学のことだと思い、メイに留学生として受け入れて欲しいとお願いしていたのだが、王女はそこでは嫌だと言ってのけた。彼女はアガルタ軍の軍制について勉強したいのだと言う。将来はネルフフ軍をアガルタ軍のようにしたいのだと言って目を輝かせた。
こうした提案は実はかなり多い。しかし、そうした要請はすべて断っている。基本的にアガルタ軍は機密事項が多いというのもあるが、訓練が厳しすぎて付いてこられないだろうという点も考慮してのことだ。新兵はラファイエンスの鬼訓練が課され、それが終わると、今度はマトカルからさらに厳しい訓練が課されるのだ。
言うまでもなく、アガルタ軍は志願制で、誰でも応募することができる。体力バカを自認する――大体は冒険者上がりが多い――者たちが、ほぼ全員が訓練中に一度は泣く。それ程の訓練であるために、そこいらの王子や領主の息子がやって来ても、付いていくことができないのだ。
もちろん、そうした者たちを別扱いにすることはできるのだが、マトカルの性格上、それはしないことにしている。彼女はあまり感情を外に出すことをしないのだが、その実はとても情が深い。兵士たちに厳しい訓練を科すのは、戦場で死なないためであり、兵士たちが訓練不足のために死ぬことを彼女は一番嫌う。マトカルはマトカルで、アガルタ軍二万の将兵全員を大切な仲間だと思っているのだ。
で、このフィレット王女だ。そうしたこともあって、彼女には諦めてもらおうとしたのだが、何とこの女性は、新兵の入隊試験を受けると言い出した。アガルタ軍は基本的に男性社会だ。そんな中に女性が一人入ると、色々と問題が起こるし、何より、女性用の着替える場所や手洗いなどもない。そうしたことを説明しても、彼女は新兵試験を受けると言って聞かなかった。
アガルタ軍に女性兵士はいることはいる。それは魔法部隊だ。それぞれの属性に応じた魔法使いが所属していて、その数は三百を超える。その半数以上が女性なのだ。王女にはそこへの入隊を打診してみたが、魔法は全くの不得手という爽快な答えが返ってきた。まあ、確かに魔法隊の顧問と彼女は絶対に相容れないと思うために、それはそれで正解と言えるのだが。
アガルタ軍魔法部隊の顧問を務めるのは、ルファナちゃんの母親である、サルファーテ女王だ。今は女王ではないので、元女王というところか。ただ、俺たちは便宜上彼女を女王と呼んでいる。
この婆さん、いや、女王は、アガルタに避難してきてからずっとこの都に住み続けている。ここの暮らしが気に入ってしまったのだ。ただ、何にもしないというのも退屈だということで、魔法部隊を組織するにあたり、彼女にその顧問となってもらったのだ。
気位が高い女性であるために、娘であるルファナちゃんは反対したのだが、豈はからんや、この婆さんは、魔法を教えることにかけては一級品の腕前を持っていた。その明快でわかりやすい魔法理論は、少し魔法をかじったことのある者であれば、たちまちそのスキルを上げることができた。
サルファーテ女王も、そうした新しい境遇に満足しているようで、彼女は魔法使いたちを鍛えることに情熱を燃やしている。そして今では、アガルタ大学に新設された魔法学科の顧問も兼務して、忙しい日々を送っているのだ。
なお、学問好きという点では、フラディメ王国のリボーン大上王と同じ属性を持っているが、この二人の相性は最悪だ。一度、言葉を交わしたことがあるが、互いが互いを嫌い合い、時が経つにつれて二人の間に、得体のしれない空気が醸し出されたのは、思い出したくもない思い出だ。
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色々とすったもんだの挙句、フィレット王女は、ラファイエンス付きの武官ということで落ち着いた。あのオッサンなら女性の扱いには慣れすぎるくらいに慣れているだろうし、兵士たちの訓練や戦場での心構えが中心の活動であるために、アガルタ軍の機密には触れないだろうとの判断によるものだ。今のところ彼女はそれで満足しているようで、兵士たちの訓練に参加して汗を流しているのだ。ラファイエンスとの関係もよく、まるで、師匠と弟子のような関係性を築いている。心配された将軍の手も付いていないようだ。
そんな彼女は俺をじっと見据えながら、ニコリと微笑んだ。
「面白そうな話ですね。ぜひ、私もお供をさせてもらえませんか?」
……そりゃ、無理、でしょうよ。