第九百三十七話 カイク帝国
「私が住むサクは代々、ナノル様一族が治めておいででした。今のご領主であるナノル・ユタ・イフス様はもちろん、歴代にわたって善政を敷いてこられました。これまで、何度となく国内は飢饉に見舞われましたが、お陰様をもちまして、我がサクは、一人の餓死者も出さずにこれまでやってくることができました」
コリタは、一人の餓死者も出さずに、という言葉に力を込めた。
「一人もが死者を出さない、というのはすごいですね。一体どのくらいの期間、そうした状態なのでしょうか」
俺は思わず問いかけた。先のデウスローダとの戦いにおいて、為政者とは領民が餓死しても何とも思わないというイメージを少なからず抱いていたためだ。コリタは静かに答える。
「およそ、二百年間は、餓死者は出ておりません」
「にっ、二百年?」
思わず大きな声が出てしまった。二百年と言えば、日本で言えば江戸時代の大半の期間だ。確か、江戸幕府の時代でも何度か飢饉が発生してえらいことになったと記憶している。あれは確か……冷害? 富士山の噴火も原因の一つだっけ?
「二百年もの間、一人の餓死者も出さずに飢饉を乗り切ってきたというのは、すごいことですね。一体どうやってきたのか、ぜひ、そのお話を聞いてみたいですね」
コリタは不思議そうな表情を浮かべた。確かに、ゴリゴリの軍人と一緒にいる男がそんなことを突っ込んで聞いてくるとは思わないよね。
「いっ、いやー。あのー。それですよ。そうなのですよ。飢饉、飢饉ですよ。飢饉については、色々とありましてね。ひどい目にあった、ひどい目にあったところを見たのですよ。ああいうのは、見るものじゃないし、ああいう状況は起こすべきではないと思うのです」
「同感でございます。私も、サクではそうしたことは起こりませんでしたが、飢饉の惨状はよく知っております。あれは……人間が人間でなくなります。ああしたことは……自然の力とはいえ、起こすべきではないですし、起こさないように努力をするべきです」
彼はそう言って、カイク帝国内で起こった飢饉の様子を話し始めた。それはもう、耳を覆いたくなるような凄惨な内容だった。俺もそうした話は断片的ながら聞いたことがあるが、実際にその現場を見てきた者から聞く話はリアリティーがあり、俺は言葉を失いながらその話に耳を傾ける他はなかった。
「そ……それにしても、ご領主のナノル、と言う方はすごいですね。どうやってその、飢饉対策をしているのですか?」
「簡単なことです。飢饉に備えて食料を備蓄しているのです」
「なるほど……」
簡単な話だとコリタは言うが、それが簡単なことではないことを俺は知っている。サクという土地にどのくらいの人が住んでいるのかは知らないが、百や二百ではあるまい。飢饉というのは短期間で解決するものではない。数千に及ぶ人々を数か月間養わねばならないのだ。それは相当量の食料となるだろう。平時が続けばよいけれど、その間に戦いの一つでも起これば、備蓄している食糧を使わねばならないこともある。そうしたことを踏まえた上でそれを計画的に備蓄するというのは、相当の政治手腕を持っていると言っていい。
「それだけ優秀な領主が……国替え、になるというのは、確かに残念なことですね。お気持ちはわかります」
「いいえ。ナノル様が他の土地に赴かれ、そこが発展するならば我々も喜んで送り出します。しかしながら、ナノル様の後に領主に任命されたお方が、ノズミ様とあっては、我々は承服しかねるのでございます」
「その、ノズミ、とは?」
聞けば新しく領主になる男は、つい先ごろ発生した飢饉で、カイク帝国内において最も餓死者を出した領地を治めていたのだと言う。その数は公表されていないが、全領民の六割が亡くなる数だと言われている。
「一体、どうして?」
「それは、領地から上がる年貢や鉱山から得られる収入の大半を、賄賂につぎ込んでいるからです」
「はあっ!?」
「ノズミ様もナノル様と同様に王族であらせられます。ナノル様は、帝国内において高い地位をお望みにはならず、ただひたすらに領民の安寧に心を砕いておいでですが、ノズミ様はナノル様とは違い、帝国内において高い地位をお望みであらせられます。そのため、あのお方は地位の高い方々に賄賂を贈り、己の地位向上に執心しておいでなのです」
「……最低じゃん」
開いた口がふさがらないとはこのことで、しかもこのノズミと言う男は、マジでイカれている。元々彼は別の土地を治めていた。そこは彼の先祖代々から受け継いだ土地であり、それなりに肥沃な土地であったのだが、帝国内での昇進を望むあまり彼はその土地を捨て、敢えて貧しい土地に移りたいと皇帝に申し出た。元々治めていた土地には皇帝の王子が領主として赴任したのだそうだ。確かに皇帝の覚えはめでたくなるだろうが、これまで仕えてきた家来たちは迷惑な話だろう。彼らとても先祖代々受け継いできた土地があり、そこから離れるだけでも迷惑な話だろうが、そこに輪をかけて取れ高が少ない土地に行くとなれば、自分たちの売り上げも減ることになる。迷惑を通り越して大迷惑だろう。
コリタの話では、領地替えに関しては家来たちは大反対であり、中には、ショックのためか、抗議のためなのかはわからないが、自ら命を断った者もいるのだという。凄まじい話と言わねばならない。
とはいえ、ノズミとしては、いつまでのその瘦せた土地にいるわけにもいかなかったらしい。それはそうだろう。領民の六割が死んでしまうような飢饉が起これば、自分たちの生活もままならなくなる。そこで目を付けられたのが、コリタが住むサクの土地だ。そこは帝都からも近い上に、それなりに肥沃な土地だ。加えて、この土地が飢饉に強いことは国中の者たちが知っているために、サクには人口が増え続けている。いろいろな地域から流入した人々が荒れ地を開墾するなどして住み着いているのだという。ということは、それだけサクの収入は上がることになる。コリタは何も言わないが、サクの収入は表向きに発表されているものよりも多いはずだ。もしかすると、そのノズミという男は、その点にも目を付けたのかもしれない。
コリタとしては、今まで何の問題もなく暮らしてきたサクという土地に、そんな恐ろしい領主がやってくるとなると、それは断固として拒否したいという気持ちはよくわかる。下手をすれば、今度はサクの土地において飢饉の際、領民の六割が死に絶える事態にもなりかねない。
「それにしても不思議ですね。そんな無能な領主だったら、領民が蜂起して、反乱の一つでも起こっても不思議ではないと思いますけれど、そうした動きはなかったのですか?」
「もちろん、そうした動きはありました。むしろ、小さな反乱は常に起こっていたと言ってよろしいかと思います。しかし、どれも成功しませんでした」
「ということは、ノズミという領主には相当な軍事力を持っているということ、か?」
「いいえ。そうではございません。反乱がおこると帝都から皇帝陛下直属の親衛隊がやって来て、その動きを鎮圧いたします。そして、反乱を起こした者たちはもちろん、その親族に至るまで重い罰を受けることになります」
「重い罰ということは……首を刎ねられるのですか?」
「いいえ。そんな生易しいものではございません。男は鉱山に送られ、女性は奴婢として死ぬまでは働くことを強要されるのです」
……何ちゅう国だ。