第九百三十六話 不思議な書状
馬は前足を大きく跳ね上げながら絶叫に近い嘶きと共にその足を止めた。マトカルは手綱を捌いて馬を落ち着かせながら、突然目の前に現れた男を睨みつけた。
彼女の後ろに控えていた兵士たちが飛び出してきて男を囲み、槍を構えて切っ先を向けた。
実際、この男の振る舞いは危険極まりないものであった。一歩間違えば男は大けがをした可能性があり、さらには、マトカルが馬から放り出されてしまうと、ヘタをすると彼女は命を落とした可能性すらあったのだ。
だが彼女は、男に鋭い視線を投げかけてはいるが、一切声を荒げず、冷静に男の行動を観察していた。そのとき、平伏していた男がガバッと顔を上げた。
「アガルタ軍のマトカル王妃様とお見受けいたします! お聞き届けいただきたいことがございます! 何卒! 何卒っ!」
男は懐から一通の書簡を取り出してマトカルに差し出した。
「捕らえろ」
彼女は男の言い分を一切聞かずに兵士たちに命令を下した。すぐに帯剣した者たちが男を取り押さえて、あっという間に縛り上げた。
「お願いでございます! お願いでございます! 後生でございます! 後生でございます!」
男はそう叫びながら連行されていった。地面には先ほど差し出された書簡が転がっていた。それを兵士の一人が拾い上げ、マトカルに視線を向けた。彼女はそれには何も答えずに、馬首をアガルタ軍本部に向けた。
◆ ◆ ◆
「直訴……か」
リノスは執務室でマトカルから先ほどの顛末を聞いて、天を仰いだ。彼は再びマトカルに視線を戻すと、苦笑いを浮かべた。
「しばらくの間は、外出できなくなるかもな」
「……どういう意味だろうか」
「マトが外を歩けば、ひっきりなしに直訴してくる者たちが押しかけてくるかもしれない。下手をすれば、アガルタ軍本部の前に直訴を願う者たちの列ができる可能性がある」
「埒もないことだ。直訴の罪は重いのは、そういうことを防止する意味もあるのだ」
「……男をどうするつもりだろうか」
「……常識に照らせば、死罪となるだろう。そうせねば、リノス様が言われた通り、直訴の列ができることになる」
「で、彼の願いは何だろうか」
「これだ」
マトカルは手に持っていた書状をリノスに渡す。差出人は、コリタという名前だった。カイク帝国サクの者、とあった。
「……これは、先日アガルタに書状を送ってきた男じゃないのか。確か、領主の国替えを止めさせて欲しいと言っていたヤツだ」
リノスの言葉に、マトカルは無言で頷く。
「書状を送って来るだけに飽き足らず、自らやって来て直訴に及ぶとは……」
「それだけに、相当な覚悟があると見ていいだろう」
「とりあえず、話しだけでも、聞くか。秘密裏に、な」
リノスの言葉に、マトカルは否とも応とも言わなかった。ただ、無言のまま彼を見据えていた。
「……アガルタ王が直接話を聞いては、後々面倒くさいことになる、か? じゃあ、その対策も考えないといけないな」
「クノゲンかホルムに対応させよう」
「う~ん」
「リノス様や私は表に出ない方がいい」
「……そうだな。こういうときには、国際裁判所なんかがあればいいんだけれどもな」
「コクサイサイバンショ?」
「世界中の問題を判断する機関さ。まあ、それがあっても、問題解決はなかなか難しいかもしれないけれどもな」
リノスはそう言って笑った。
◆ ◆ ◆
コリタは地下の石牢に閉じ込められた。取り調べも何もなく、いきなりそこにぶち込まれた。ぶち込まれたと言っても、乱暴に扱われたわけではなく、アガルタ軍の兵士たちは、手荒なことを一切しなかった。
コリタは故国を思った。カイク帝国内で直訴などをしようものなら、一瞬のうちにその首を刎ねられ、その場で躯を晒すことになる。それだけではない。直訴に及んだ家族・親戚にも類が及ぶ。家族は死罪となり、親類縁者は男は鉱山に送られて死ぬまで強制労働に従事し、女性は奴婢として売られるのだ。
もとより彼は命を捨てていた。斬られても殺されても、訴状がアガルタ王に届けばそれでよいと考えていた。だが、実際は命を取られるどころか、生かされて牢に入れられた。手荒なマネは一切受けずに、だ。
……真の強国とは、これほど紳士的な振る舞いをするのか。
この大きな原因は余裕のあるなしだとコリタは分析した。カイク帝国は貧しい国だ。人々が日々の生活を送るだけで精一杯だ。そのため、国内はいつも不安定だ。大小様々な反乱が勃発するため、兵士たちは常に緊張を強いられて余裕がない。そのため、他者にまで意識を向けることができないために、終始ぞんざいな扱いとなるのだ。
アガルタの牢に入れられて驚いたことがもう一つある。きちんと食事が提供されたことだ。温かい料理は温かいままで届けられた。こんなことは、カイク帝国においては考えもしないことだった。大体、牢屋というのは不衛生なものであると決まっている。食事も満足に提供されることがない。牢に繋がれた段階で、役人の仕置きを待つまでもなく死を迎えることを覚悟せねばならないものなのだ。
そこまで考えたそのとき、二人の兵士がやってきた。彼らはコリタが食事に手を付けていないのを見ると、体調が悪いのかと尋ね、そうではないことがわかると、食事が終わったら呼ぶようにと言って去っていった。
彼は驚きながらも供された食事に手を付けた。日を継いでアガルタまでやって来たため、ほとんど食事を摂っていなかったせいもあるが、出された料理はどれも美味しいものだった。彼は深く感謝して、食べ終わると兵士たちを呼んだ。
通されたのはアガルタ軍本部の会議室のような部屋だった。簡素な机とテーブルが置かれてある。部屋の奥には、白い紙が貼りつけられた板が掲げられていた。何かの作業をする部屋かと思って周囲を見廻していると、足音が聞こえた。
扉が開かれると、先ほどとは違う二人の男が入室してきた。一人は初老の男で、もう一人は、顔を包帯のようなものでグルグル巻きにしていた。
「アガルタ軍のホルムです。こちらは同じアガルタ軍のケンシン……殿です」
顔を隠している男は、ケンシンですと名乗りながら椅子に腰かけた。その様子を見たホルムもまた、椅子に腰を掛け、コリタにも着席するように促した。
「この直訴状をお書きになったのは、コリタさん、あなたで間違いはありませんか?」
突然、尋問のような形で質問されたので、彼は思わず体を委縮させた。だが、すぐに元の落ち着きを取り戻して、目の前にいるホルムに対峙した。
「左様です。私が認めました」
「結論から先に申し上げますが、私どもは、あなたの訴状を受け取るわけには参りません」
「はい……。残念ですが、承知、しました」
「……」
ホルムは呆れた表情を浮かべながら、隣に座るケンシンに視線を向けた。予想していたよりもはるかにあっさりとコリタが引き下がったからだ。てっきり、泣きはしないまでも、しつこく食い下がって来るだろうと予想してのだが、拍子抜けをしてしまっていた。
「いや、何とも不思議な書状だったのでね。こうして一度、お話を伺おうと思ったのです」
ケンシンと名乗る男が口を開いた。彼は頷きながら言葉を続ける。
「大体、こういう直訴に及ぶという行為は、領主や国王の振る舞いが酷いから何とかしてくれという内容だと思っていたのです。ところが、です。コリタさんがお書きになった書状を見るに、今の領主はとても温厚篤実で人望も厚い。だから国替えを阻止したいとありました。こういう事例は初めてでしたので、ね」
「ありがとうございます。そう言っていただきますと、嬉しゅうございます。私どもとしましては、現領主であられますナノル様には、何としても、領内におとどまりいただかねばならないのです。そうしませんと、領民の多くが死に絶えることになりますので」
「領民が死に絶える!? どういうことです?」
ケンシンの言葉に、コリタは静かに語り始めた……。