第九百三十二話 歌詞
デウスローダとの戦いがいち段落して、リノスにはようやく穏やかな日常が戻ってきた。彼は相変わらず毎日都に出勤して、王としての仕事に励んでいた。
今の彼の仕事は、もっぱら書類にサインを記すことに費やされていた。先の戦いで功績のあった者たちへの論功行賞のためだ。ある者には金一封が贈られ、ある者には感謝状が贈られる。とりわけ、この感謝状が大量に発行されるため、彼の机の上には毎日それが山と積まれている。そこに丁寧にサインを書き入れていくのだ。
アガルタ王直筆のサインが記されたこの感謝状は、アガルタ軍の中においては絶大な効力を発揮する。これを持っている、持っていないで、軍内での発言の説得力が違ってくる。また、これは兵士の昇進にも大きな影響を及ぼす。例えば、新兵でこれを得ることができると、次の日から一階級昇進ということになる。幹部になるためにはそれだけでは難しいが、階級の低い者たちにとっては、何としても手に入れたいアイテムであった。
そうしたこともあり、マトカルを含めたアガルタ軍幹部は、この感謝状の発行には細心の注意を払う。これは兵士の士気を上げる効果がある一方で、使い方を間違えると、兵士たちの諍いの種になるからだ。ただ今回は、従軍した者ほぼ全員に感謝状が発行されることになっており、兵士たちの士気は大いに上がった。
兵士たちは万々歳であるが、それにサインを記す側は、多大な労力を伴う。しかしリノスは、文句ひとつ言わずに毎日大量の感謝状に丁寧にサインを記していく。ただ、基本的に残業をしないと宣言している彼は定時になると帰ってしまうため、その発行は予定よりやや遅れがちであった。
ちなみに、この感謝状は特殊な紙で作られている。兵士たちの将来を決定する程の効力を持つものであるため、精巧に作られた偽物を作る者が現れる可能性がある。そうしたことができないようにと、メイとシディーが協力して、いわゆる「すかし」が入った紙を開発していた。この感謝状は光に照らすと、アガルタの国旗の紋様が浮かび上がる仕掛けとなっている。
そうして今日も彼は、定時になるまでサイン書きを行い、そろそろ帝都の屋敷に戻ろうと立ち上がった。うーんと背伸びをして、窓の外に視線を向ける。そこには、アガルタの国旗が翻っていた。
その旗が突然スルスルと降ろされていく。そして、しばらくすると、再び国旗がスルスルと上がってきた。
これは、同じ国旗のようにも見えるが、見る人が見れば、先ほどとは異なるデザインであることがわかる。これは一種の暗号で、この旗が上がっているときは、国王リノスは不在であるという意味になる。先ほどまで揚がっていた旗は、国王在室と言う意味を持っていた。
リノスは国旗の降納と掲揚を眺めながら、ふと、前世のことを思い出していた。彼の記憶にある国旗掲揚は運動会というイメージが強い。厳かな国歌を聞きながら国旗が上がっていく様は、何となく厳かな雰囲気を感じた者だった。
……そういえば、アガルタって国歌ってなくない?
ふと、そんなことを考えた。そう言えば、メイたちの提案で国旗を作ったが、国歌は作った記憶がないな……。そんなことを考えながら彼は帝都の屋敷に転移した。
帰宅するとすぐに夕食が始まり、その後は子供たちを風呂に入れる。バタバタと騒々しいが、彼にとっては子供たちと触れ合える大切な時間だ。そうした嵐のような時間を過ごして寝室に向かうと、嘘のような静かな時間になる。彼はようやくここで人心地つくことができるのだった。
この時間は思索にふけることが多い。このときも、頭の中には国歌のことで満たされていた。
寝室の扉がノックされて、ドアが静かに開く。この開け方はリコだ。
扉の開け方も妻によって違う。マトカルは素早く開けてすぐに入って来る。シディーは一旦開けて顔だけ出してキョロキョロと周囲を確認してから入って来る。メイはゆっくり開けて、丁寧に扉を閉める。ソレイユは扉を開けて後ろ手で閉める。面白いものだ。
リコは所作が洗練されているためか、扉を開けてから閉めるまでの動きに一切の無駄がない。彼は心密かに、リコのこの動きを見るのが好きで、楽しみにしているのだ。
彼女は鏡の前に座り、櫛で長い髪をとかしている。そんな彼女の背中越しにリノスは、そう言えばアガルタって国歌ってなかったよね、と声をかける。
「そう言われてみれば……記憶にありませんわね」
「あんまりよくわからないけれど、大体、どこの国も国歌ってあるんだろう?」
「それはそうですわ」
「ヒーデータにもあるんだ」
「もちろんですわ」
「聞いたことがないな。どんな歌だっけ?」
「そんなことはありませんわ。何度も聞いているはずですわ」
「どんな曲だっけ?」
「……」
「どうした?」
「歌うのは、恥ずかしいですわ」
「ちょっとだけ……お願い」
リコは大きなため息をつくと、目を閉じてヒーデータ帝国の国歌を歌い始めた。
……上手い。
リコの歌は初めて聞いたのかもしれない。きれいな声で、上手にビブラートをかけている。リノスが驚いていると、リコはスッと彼に視線を向けると、恥ずかしそうに口を開いた。
「……と、いう歌ですわ」
「かわいい」
「え?」
「今のリコは、めちゃくちゃかわいい!」
「……」
彼女は顔を真っ赤にしながら、あらぬ方向に視線を泳がせた。
◆ ◆ ◆
翌朝、朝食の席でリノスは、ソレイユとルアラに、アガルタの国歌を作ってくれと頼んだ。昨夜、リコとの相談の結果、歌であればこの二人が最も詳しいだろうということになったのだ。
だが二人は顔を見合わせると、私たちでは無理ですと言った。リノスは最初、二人が謙遜しているものとばかり思っていたが、詳しく話を聞いてみると、二人の歌はいわゆる口移しで覚えたもので、楽譜は読めないのはもちろん、楽器さえ演奏できないのだと言う。リノスの計画はいきなり頓挫した。
困った彼は、メインティア王に相談することにした。だが彼もまた、音楽を聴くのは好きだが、自分で作ったことはないと、飄々とした様子で答えた。
「考えてもごらんよ。音楽を作るというのは相当の才能がなければできない仕事だ。私などは無理だね。でも、本当に才能のあるものであれば、ものの数分で作ることができるようだ。アガルタにもそうした者がいるんじゃないかな。まあ、心当りがないわけではないが、まずは広く国内で募ってみるのがいいんじゃないかな」
「……心当りとは?」
「ポセイドンの兄上だよ」
「ポセイドン王!?」
「ああ。あの兄上ならば、相当の才能を持つ音楽家を抱えているはずだ。ただ、あの兄上にお願いするとなると、それなりの土産が必要になるけれども、君は大丈夫かい?」
リノスは思わず目を閉じて天を仰いだ。それはそれで面倒臭いなと心の中で呟いた。
「あと、国歌とあるからは、歌詞は出来上がっているのかい?」
「歌詞?」
「ああそうさ。国歌とあるからには歌詞がなければ意味がない。その歌詞に、国家の姿勢が現れているものだ」
「ああ……国歌だけに、ね」
「うん? 何を言っているんだい、君は? まあ、歌詞がまだ出来上がっていないのであれば、先に歌詞を作ればいい。それがあれば、音楽家も曲を作りやすいんじゃないかな。せっかくだ、君が歌詞を書いてみると言い。国家としてどうありたいのかを書くのだ。簡単な仕事だろう?」
「ああ、なるほど。でも歌詞なんてものは書いたことがないのですよね……」
「書いたことがないのであれば、一度やってみるといい。意外な才能が見つかるかもしれないよ」
「なるほど……」
アガルタの都に帰ると、リノスは早速、歌詞の作成にかかった。まずは、頭の中に浮かんだ言葉を書き連ねてみる。
魂を燃やせ のめり込める何かに
魂を燃やせ 燃やし続けろ
リノスはしばらくの間その歌詞を眺め続けていたが、やがて、無表情のまま紙を丸めると、ゴミ箱にポイと投げ入れたのだった……。