第九百三十一話 戦況分析
クリミアーナ教国教都・アフロディーテ。白で統一された街並みの中、小高い丘の上にひときわ大きな作りで周囲を圧倒している建物――教皇神殿の執務室において、ヴィエイユは一心不乱に一冊の報告書に目を通していた。
彼女の机の傍には、様々な書類が乱雑に置かれている。常に机はきちんと整頓されている彼女にしては珍しい光景と言えた。それは彼女がそれだけ長い時間、他の仕事の手を止めてこの報告書を読んでいることに外ならず、それもまた、彼女にしては珍しいことと言えた。
彼女は一つの仕事に時間をかけない。次から次へとタスクを処理していく。手紙や報告書の類は三十秒もかけずに大抵は読んでしまう。分厚い報告書などが提出されるときもあるが、それでも、一ページを読む速さが常人の倍以上の速度で読んでしまう。これは、彼女が人知れず努力して身に付けた能力の一つであると言えた。
彼女の傍にはいつも、数人の枢機卿が控えていて、指示を待っている。ヴィエイユは次から次へと彼らに指示を出していく。それを受けた彼らはすぐにそれを実行したり、担当部署に命令を下したりする。そのため、彼女の執務室にはいつも人がひっきりなしに出入りするのが常となっていた。
だが、今の彼女の部屋には、いつも傍に侍っている枢機卿の姿はない。呼ぶまで一人にしてくれと彼らを退室させたからだ。とはいえ、提出される書類は待ってはくれず、彼女の机にはそれらが次から次へと置かれていき、結果、現在のような状況となったのであった。
何事も常に整理整頓されている状況を好む彼女にとっては、大いにストレスの溜まる状況である。しかし彼女はそんな状況に声を荒げるでもなく、不満をあらわにするわけでもなく、ただ、無表情のまま一本の報告書に目を通していた。
それは、先に行われたアガルタとデウスローダとの戦いに関する報告書だった。
ヴィエイユが目にとめたのは、アガルタ軍におけるデウスローダ本陣への突撃行動だった。これまで、アガルタと対峙した国が何度となく取った戦法であり、その全てが失敗に終わった戦法だった。
彼女の中で、対アガルタ戦における本陣への突撃攻撃は、成功の可能性が極めて低いものであり、むしろ、それは愚策と考えていた戦法だった。だが、アガルタは敢えてそれを採用して成功に導いていた。ヴィエイユの中で常識が崩れていた。
ヴィエイユは、ヒーデータ帝国の命令でアガルタがデウスローダに食糧支援を行うことは把握していた。その行動は理解できたし、それをせねばならぬアガルタにむしろ彼女は同情的であった。
そのアガルタがどうしたことか、デウスローダ国内において戦闘状態に陥ったという。デウスローダによる一方的な攻撃だった。その報を受けたとき、ヴィエイユはアガルタの敗北を微塵も考えなかった。あの王の能力をもってすれば、たとえ三万の軍勢を率いていたとしても、その軍勢を蹂躙するのは容易いことだからだ。
しかし、報告書にはアガルタ王が戦闘に参加したという記載はない。そこには、マトカルの躍動ぶりが生き生きと描かれていた。それはヴィエイユにとって予想もしていないことであった。
むろん、マトカルのことは知っている。一切表情を崩さない、いかにも軍人という佇まいだ。これまでの彼女の行動を見ると、アガルタ王の傍近くにあって軍の指揮を執ることが多く、また、別動隊を率いて敵を牽制したり奇襲したりする役割が多かった。彼女は寧ろ、戦場において華々しく活躍するのではなく、兵を訓練したり、動かしたりする統率力に長けた人物であるとヴィエイユは評価していた。
ところが、今回の戦いに限っては、このマトカルが獅子奮迅の働きを見せていた。アガルタ軍の先頭を切って走り、雨のように降り注ぐ弓矢や魔法をものともせずにデウスローダ本陣に突撃を敢行していた。そして彼女は持っていた槍や剣で、デウスローダの兵士を斬りまくっていた。まさに、悪鬼羅刹のような戦いぶりであると言ってよかった。
書かれた報告書は、デウスローダ側からの視点であるために、アガルタ軍がどのように今回の戦法を決定したのかは窺い知ることはできない。それでもヴィエイユは豊かな想像力をもって、アガルタ軍内で行われたであろう軍議の様子を思い描いた。
……おそらく、この本陣突撃の作戦を立案したのはマトカルなのだろう。だが、ある意味ではこれは無謀な作戦だ。絶対に成功する確証がなければ、あのアガルタ王は許可を出すことはない。
では、その勝利の確証は何だろうか。報告書から察するに、アガルタ・デウスローダの両陣は鶴翼の陣を張っている。これだけを見ると、戦況はアガルタにとって圧倒的な不利な状況だ。アガルタはアルレを守りながら自陣も守らねばならない。もし、デウスローダがアルレ攻撃に全力を注げば、アガルタはその支援に向かわねばならないため、その点も考慮に入れて戦う必要がある。
「アルレ攻撃に全軍で向かえば、勝てたのにね」
思わず声が出た。デウスローダ軍がアルレ攻撃に全軍を向ける。そして、アガルタから一番遠いところに本陣を置いておけば、アルレはすぐに陥落し、アガルタは孤立することになる。奇しくもヴィエイユの見立ては、先の戦いで戦死したウジョーの作戦と同じだった。
だが、デウスローダは一軍のみをアルレに向かわせた。これはヴィエイユにとっても不可解な行動だった。そして彼女は、おそらくアガルタにとっても、この行動は予想していなかったことではないかと想像した。
「で、ホルム隊がウジョー隊の側面と突いて崩し、そのまま背後に回り込む……」
ヴィエイユは、これはホルムの独断であると断じた。この動きは、本陣に注進して指示を待っていてはできないものだ。とすれば、アガルタ軍の将校たちには、独断で軍勢を動かす権限を与えられていることになる。それは、彼女の常識ではあり得ないことだった。
「と、すれば、この本陣突撃は、マトカル独断? いや、マトカルに続いて全軍が攻撃に移っているところを見ると、これは、当初からの作戦……?」
ヴィエイユには、いくら考えてもそれがどうしてもわからなかった。当初からの作戦であれば、アガルタ王の力量はさすがであると断じることができる。それだけだ。しかし、これがマトカル独断で行われたとなると話は別だ。それは司令官たちに完全に意志の統一が図られていることを意味しており、ヴィエイユがやろうとして未だできずにいることであった。
……おそらく、前者の可能性が高いけれど、後者の可能性も考えていた方がいいわね。
ヴィエイユは敢えて結論を出さずにおき、この長い戦況分析を終わらせることにした。
「それにしても意外だわ。あのお方がこんなに積極的だったなんて」
ヴィエイユはそんなことを言いながら天を仰ぎ、目を閉じた。彼女の頭の中には、マトカルとリノスの房室が映し出されていた。
これまでは、マトカルは房室では積極的に夫を求める人物と考えていたが、寧ろ彼女は逆なのではないかと考えていた。ただ、ひたすらに夫の愛撫に顔を真っ赤にして耐えている。それが悟られぬように――実際は夫に悟られてしまっているのだが――声を殺してその愛に耐えている。もちろん、夫の要求には唯々諾々として従う。言わば、メイリアスとは真逆のパターンだ。昼は戦士のごとく、夜はまだ、男を知らぬ少女のように振舞う……。これはこれで面白いし、アガルタ王の興味も尽きないのではないか。そんなことを考えながら、かのじょは目をゆっくりと開けた。
……まあ、私もまだ、男を知らないけれど、ね。
そう心の中で自虐的に呟いて笑みを浮かべた。彼女は椅子に座り直すと、先ほどまで読んでいた報告書を脇に置いた。そして、手を鳴らすと外に控えていた枢機卿たちを呼んだ。さて、これからは急ピッチで仕事を片付けねばならない。ヴィエイユの頭はすでに切り替わっていた……。