第九百三十話 予想もしていない未来
ニーシャをデウスローダに送り出したその夜、ヒートは愛妾・タウンゼットの部屋を訪れた。
疲労の色が濃かったが、タウンゼットは、何かございましたか、などとは聞かずに席を立つと、自ら茶と菓子を用意して彼の許に出した。
とても大国の妃がすることではない。だが、彼女はヒートが部屋に訪れた際は自分で茶を入れ、菓子や、時には簡単な料理を振舞うこともあった。
従来、皇帝の食事には毒味役が付いている。だが、このタウンゼットの私室では、そうした役をおかずにいた。彼がこの城の中で本当に温かい食事や飲み物を摂ることができるのは、この部屋だけであり、そうしたこともあって彼は、頻繁に妃の部屋を訪れるのだった。
夜も更けているため、すでに子供たちは寝静まっている。彼は茶を一服すると、心から安堵した表情を浮かべながら、美味いなと誰に言うともなく呟いた。タウンゼットはそんな夫に優しい眼差しを向けている。彼はやおら立ち上がると寝室に向かい、子供たちの寝顔を見た。長男のアローズは別室で寝ているが、まだ幼い二人の娘はタウンゼットの許で暮らしている。二人ともかわいい寝顔を浮かべている。天使とはかく言うものではないかと心の中で呟いた。
「……ニーシャを、デウスローダに向かわせた」
寝室から戻ってきて、出し抜けに彼は呟く。タウンゼットは少し驚いた表情を浮かべたが、彼を見る眼差しは相変わらず優しさに満ちていた。
「ニーシャがこの国に帰ってくることは、ないであろう」
「まあ……」
「余と共におっても、幸せにはなれぬであろう。で、あれば、馴染みのあるデウスローダに帰して、新たな幸せを見つけた方が、ニーシャのためにもなる」
タウンゼットは何と返事をしてよいのかわからず、何とも言えぬ表情を浮かべている。
「そこで、だ。すまぬがそなたに、皇后の役割を果たして欲しい」
「私が? それは……難しいかと、存じます」
「いや、何も皇后である必要はないのだ。皇后が臨席せねばならない儀式などに出てくれればそれでよい」
「……」
「すまぬが、余を支えてくれい」
ヒートの言葉に、彼女は無言のまま頭を下げた。
実際、デウスローダとの手切れは、ヒートにとって願ったり叶ったりの状況であった。この同盟はヒーデータにとっては旨味のないものであり、家来たちも、デウスローダからの度重なる無心に頭を悩ませることが無くなるために、この決定を歓迎する者が多かった。
一方で、正妃・ニーシャとの離縁は、ヒーデータにとって皇后不在という状況を生んだ。
帝国には様々な仕来りがあり、その中には必ず皇后も臨席せねばならないものも多くある。皇后が病没した際はその代役を立てることはあったが、皇后を離縁した皇帝はこれまでにはなく、ヒーデータは先例のない状況に陥っていた。
宰相であるグレモントは、他国から皇后となる女性を迎えることを提案したが、ヒートはそれに対して消極的であった。儀式の最中はずっと皇后と一緒にいなければならないため、彼はこれまで人には言えない気苦労を背負ってきたのだ。
結果的に、タウンゼットが皇后を名乗らずに、代理として儀式に出席することについては、表立って反対する者が現れなかったために、それは、実施されることになった。彼女は、そうした儀式には出席するものの、政治的な意見を言うなどの表立った活動は一切行わなかった。元々、皇太子付きの侍女であった彼女は、多くの人の目に触れる公の場所に出るのが苦手であった。そうしたこともあり、彼女に対する表立った批判はなされることがなかった。
ちなみに後年、多くの公式行事に出席するようになったタウンゼット妃は、偶然同じ儀式に参列したリノスの妃、メイリアスと出会い、公の場が苦手という共通点を持つ彼女と親交を深めることになる。二人は互いを労わり合う関係を長く続けて無二の親友となるのだが、それは別の話である。
こうして、正妃・ニーシャの問題は解決した。これは、ヒートの精神的負担がほぼなくなったことを意味していた。これ以降、彼はタウンゼットと共有する時間が増えたことで、精神的なゆとりを得ることに成功した。そして、それは彼の政治的才能を完全に開花させることにつながるのである。
後日、リノスから直接、デウスローダとの戦いのあらましを聞いたヒートは、すぐさまネルフフ王国との同盟に動いた。ネルフフ側としても異存があるはずもなく、この試みは、アガルタ、ヒーデータ、ネルフフとの三国同盟締結という結果をもたらした。
ネルフフが獲得した領地は、リノスが欲していた鉱石・ガルマシオンホンが豊富に採れる場所であった。アガルタはネルフフと繋がったことで、ガルマシオンホンを安価に、大量に仕入れることに成功し、そのお陰でメイやシディーは、新しい技術の開発を行うことができるようになった。そして、長い研究の末に、リノスの息子であるイデアの手によって、世界が驚嘆する発明がなされるのであるが、それはまだ先の話である。
一方、ヒーデータとアガルタとつながりを持ったネルフフも、両国の技術や軍事情報などを共有されることで、強国としての第一歩を歩み始めた。フィレット王女はその後、何度もアガルタの都とヒーデータの帝都を訪れて、両国で猛烈に様々なことを学びだした。その効果もあり、数年後にこの国は、さらにデウスローダの領地を奪取することに成功するのだった。
ちなみに、このフィレット王女の父であるネルフフ王からは内々にリノスの許に使者が送られ、彼女との結婚を打診されるのであるが、リノスに丁寧に断られてしまったのは、秘密の出来事である。
この時点でヒーデータ帝国は、属国などを含めると、世界最大の領地を有する国家に躍り出ていた。帝国は皇帝ヒートの手によって今まさに、有史以来の全盛期を迎えようとしていた。
その一方で、このデウスローダの一件は、多くの国で衝撃をもって受け止められた。三万の軍勢を僅か五千の軍勢で打ち破ったということではない。民衆が自身の手で為政者を選び、アガルタがそれを承認したという事実に驚嘆したのだった。
これは、下手をすれば現在の体制を大きく変える可能性があるものだった。ある者は、それが当然のことであり、真に民のための政治を行っていれば何の問題もないと信じる王もある一方で、このことで自国の民が反旗を翻してこないかと戦々恐々とした日々を送る王も多く見られた。むろん、今回の出来事に全く関心を示さない王もいた。
そうした王たちの中で、今回の出来事を好機と捉える王もいた。その最たる者が、クリミアーナ教国教皇のヴィエイユだった。
彼女はこの一件のあらましを聞くと、すぐに筆を執り、いくつかの国に向けて書状を認めた。そしてクリミアーナ軍に対して軍備を整えて、いつでも出陣できるように命令した。まさに、電光石火の行動と言ってよかった。
実際に、彼女が書状を送った国のいくつかでは、実際に民衆が蜂起した。その大半は鎮圧されたが、中には政権打倒に至った国もあり、それらの国は須らく教国の属国となった。
ヴィエイユは徹頭徹尾、クリミアーナ教国の関与を否定し、また、教国の関与が明るみに出ないように秘匿した。そうしたこともあって、世界の国々の大半は、こうした騒動の原因をアガルタにあると解釈した。それがために、アガルタは様々な国から非難を受けることになり、リノスやリコは、そうした対応に忙殺される毎日が続くのだが、今の二人には、そんな未来が待っているとは、予想もしていないことだった……。
第二十八章これにて完結です。また間話を数話挟みまして、新章に突入する予定です。