第九百二十九話 頼みがある
デウスローダ敗れる、の報は、すぐにヒーデータ帝国にも知らされた。しかし、ヒートは正妃・ニーシャには敢えてそれを知らせなかった。彼女は、実家であるデウスローダよりやって来た使者によって、ようやくそれを知ったのだった。
報告を聞いたニーシャは、最初はその話を信じなかった。アガルタに戦いを挑んだデウスローダが敗北したのはもちろん、父・ブレイが足に深手を負い、それがもとでアガルタに捕らえられたというのは、どう考えても現実的ではなかった。三万の大軍を擁したデウスローダが、僅か五千のアガルタ軍に敗れるというのは、想像すらできない事態だった。あまりのことに、ニーシャは使者の男が勝者と敗者を間違えているのではないかと思った程だ。デウスローダが勝者で、敗者がアガルタ……。傷を負い、捕らえられたのはアガルタ王ということであれば、十分に納得できる話だ。
だが、次から次に彼女の許に寄せられる情報は、それが冗談でも何でもなく、現実に起こった事実であることを物語っていた。さらには、デウスローダ軍の敗北を受けて、アルレの町はおろか、その周辺の地域がこぞってネルフフに寝返ったのを知って、ニーシャはしばらくの間、上手く呼吸することができなくなった。
ようやく体調が回復すると、今度は猛烈な怒りが込み上げてきた。百歩譲って、デウスローダ軍がアガルタに敗れることは理解できる。父がよく、戦場では何が起こるかはわからない。寡兵が大軍勢を破ることもあるのだ、と言っていたからだ。しかし、戦いに敗れたからと言って、アルレ周辺の町までがネルフフに従うなど、言語道断の話だ。自国の軍勢が破れたのであれば、王と国の名誉を取り戻すために、死に物狂いでアガルタに攻撃を仕掛け、アガルタ王の首を討つのが臣たる者の勤めではないか。父の多年の恩を忘れて敵に尻尾を振るなど、到底許されることではない。
そうして周囲に怒りをぶちまけてみても、所詮はヒーデータにその身を置いているニーシャには、母国の危機を救う手立ては皆無と言ってよかった。
それでも、ニーシャの怒りは収まらず、その矛先を夫であるヒートに向けた。彼女は夫にヒーデータ帝国軍を率いてデウスローダに向かい、アガルタ軍の討伐と、デウスローダの失地回復に努めるよう要請しようとヒートに目通りを求めたが、それはなかなか許可されなかった。業を煮やした彼女は、あろうことか、同じ後宮に住まうヒートの愛妾、タウンゼットの部屋に自ら乗り込むという暴挙に出た。
だが、彼女はそこにたどり着くことはできなかった。部屋の手前で警備をしていた兵士たちに取り押さえられたのだ。悔しさのあまりヒートの名を大声で呼び、訳の分からぬ言葉を言い散らして、まるで錯乱したような状態で自室に戻された。それ以降彼女は自室から出ることを禁止され、軟禁状態に置かれたのだった。
しかし、ニーシャは諦めなかった。手紙を認めると、それを侍女に持たせてヒートの許に届けさせた。一通、二通ではない。一日に六度も七度も使者を寄こすのだ。もはや彼女の頭の中にはデウスローダを救うことしかなかった。
夫であるヒートがニーシャの私室に訪れたのは、彼女が軟禁されてから一週間が過ぎた頃だった。彼は殊勝にも、たった一人で乗り込んできた。
ようやく会えた夫に、ニーシャはしばらくの間、モノも言わずに睨み続けていた。ヒートも、出された茶や菓子に一切手を付けずに、ただ黙って彼女を眺め続けていた。
「……私を、どうするおつもりですか」
「別に、どうかしようとは思わぬ」
「私はこの部屋から出ることを許されず、陛下に会うことも許されておりませぬ」
「この部屋から出ることを許されぬ理由は、そなたがよくわかっておろう。それに、余はこうしてそなたに会いに来ておるではないか」
ふざけたことを、という言葉をニーシャは飲み込む。私の存念は知っているくせに、こうやっていつも話をはぐらかす。ニーシャはヒートのそういうところが嫌いだった。
「アガルタを、討ってくださいませ」
「……」
「デウスローダの失った領地を、取り戻してくださいませ」
「……」
ヒートはただ黙って彼女に視線を向けたままだった。
「……そうしていただかねば、私がここ、ヒーデータに嫁いできた意味がありませんわ。私は、両国を結びつけるために嫁いできたのです。デウスローダにことが起こればヒーデータが力を貸し、ヒーデータにことが起こればデウスローダが力を貸す。私があなた様の許に嫁ぐ際に、両国の間でそうした協定を結んでいるはずです。デウスローダは飢饉で民が苦しんでいるところにアガルタの裏切りにあい、また、佞臣たちの裏切りによって領土を失うという危機を迎えています。あなた様がヒーデータ帝国軍全軍を率いてアガルタを討伐し、デウスローダの失地を回復していただかねば、約定違反となります」
「デウスローダで発生している飢饉は、ある程度の回復を見せ始めている」
ヒートはニーシャの要請には明確な答えを返さなかった。そんな彼をニーシャは黙って睨みつけている。頬がピクピクと動いていた。
「アガルタがデウスローダ国内の隅々まで食糧支援を行ってくれたのだ。中には、村人全員が餓死している悲惨な状況もあったそうだが。その様子を見たデウスローダも、食糧庫を開放して支援に当たり始めた。そのお陰で、民衆は復興に向けて動き出している。飢饉はある程度解消されていると言っていい」
ニーシャはプイッと顔を背ける。アガルタの食糧支援によって民衆が救われたというのが、気に入らないらしい。そんな様子を見ながら、ヒートはさらに言葉を続ける。
「デウスローダ軍がアガルタに攻撃を加えて撃退され、義父上が負傷されたというのは事実だ。その戦いで、総司令官のウジョーと親衛隊長のブアリが戦死している。その原因については未だ調査中だ。それについては近いうちに、リノス殿から事情を聞くことにする」
「帝都に呼び出すのですか? それならば、そのときに……その首を討ってくださいませ」
「デウスローダから離反し、ネルフフ側に付いたのは、アルレをはじめとした……」
「陛下!」
突然ニーシャが金切り声を上げた。彼女は立ち上がると、キッとヒートを睨みつけた。
「先ほどからあなた様は私の思いに、話に、何一つ応えておりませんわっ! 私は……」
「ニーシャ、頼みがある」
「……頼み?」
予想もしていない言葉だった。ニーシャは意表を突かれた表情を浮かべながら、ゆっくりと元の椅子に腰を下ろした。
「そなた、デウスローダに参り、義父上の様子を見てきてはくれぬか」
「……デウスローダへ?」
「そうだ。義父上はかなり落ち込んでおられるようだ。そのせいか、傷の治りもあまりよくないらしい。義父上の許に参り、話を聞いてやって欲しいのだ。そなたが参れば、義父上も喜ぶであろうし、お気も晴れよう」
ニーシャは応とも否とも言わなかった。ヒートはしばらくゆっくり考えてくれと言って、その場を後にした。後日、ニーシャからデウスローダに行くという返事があり、彼はすぐに彼女を実家に送り出した。
国王ブレイは、娘が見舞いに来たと聞いて喜んだ。彼女を自室に呼ぶと、久しぶりの親子の会話に花を咲かせて最近、めっきり見せなかった笑顔を見せた。
ブレイの心に希望の光が差してきた。彼はニーシャと共に、いかにしてヒーデータを動かすかを話し合った。しかし、その話をしているときにヒーデータより使者が訪れ、ヒートからの離縁状を突き付けてきた。
国王ブレイは驚き、ニーシャもまた、己のプライドをかけてヒーデータに戻ろうとしたが、国境はヒーデータの軍勢で封鎖されており、結局、ニーシャがヒートの許に戻ることはなかった。
結果的にデウスローダは、民衆だけでなく、ヒーデータという大きな後ろ盾をも失うことになった。国王ブレイは再び、絶望の淵に突き落とされたのだった……。