第九百二十五話 壊滅
デウスローダの兵士からは、数万の軍勢が押し寄せたように見えていた。アガルタの大音声は雲の底に反射して、頭上から兵士たちの上に、落雷のような響きとなって落ちてきた。二度、三度、声のどよめきと、黒い塊が一糸乱れぬ動きで迫ってくるのを見ていると、兵士たちは浮足立った。
まず、崩れたのが国王を守る前衛部隊だった。最前線で槍を構えていた兵士が二名ほど武器を捨てて逃走した。
「逃げる者は斬るぞ!」
部隊の小隊長が抜剣して叫んだ。それは、逃亡者があったことを全軍に広告したようなものであった。続いて数名が逃げた。
「おのれ、この期に及んで卑怯な奴らめ、叩き斬ってくれる」
小隊長はそう言いながら、逃げる者の後を追って彼自ら逃亡した。
国王ブレイは、陣幕で覆われた中にいた。周囲は見えていないが、前衛で何かが起こったことは認識していたが、まさか逃亡者が出ているとは思っていなかった。彼はこの期になっても未だ、デウスローダ軍の力を過信していた。一万五千の兵力があれば、一週間や二週間持ちこたえられるだろうと思っていた。
アガルタ軍を引き付けておいて、冬が深くなるのを待てば、必然的にアルレのネルフフ軍は撤退することだろう。そうなれば、アガルタは大義名分を失い、引き揚げねばならなくなるだろうと思っていた。
「騒々しいではないか。誰か見て参れ」
国王ブレイは近臣に言った。その近臣は間もなく真っ青な顔をして引き返してくると、前衛の過半数がすでに逃亡し、なお、続々と逃亡中であることを告げた。
「敵の声で逃げ出すとは、ば、ばか者どもめ!」
国王ブレイは、彼の目の前にひれ臥している近臣の責任でもあるかのように、拳で地面を殴りながら怒鳴りたてた。
「国王様、ひとまず王都にお立ち退きを」
別の近臣が言った。
「敵と戦わずして逃げたとあっては、先祖の名を辱めるわ! 逃げるくらいならここで喉を突いて死ぬ!」
国王ブレイは意地を張った。国王が喉を突くつもりはないことはわかっていたが、このへんに話をこじらせたお蔭で、デウスローダ軍は見る間にアガルタ軍に包囲されていた。陣幕の外では、本当に喉を突かねばならない羽目になっていた。
「国王様を守れ! 国王様を守るのだ!」
絶叫にも似た声を出しながら、親衛隊のヒョウが駆け込んできた。彼はブレイの前で膝をつくと、じっと彼の顔を見つめた。
「いかがした、ヒョウ」
「……我が軍の兵士は大半が逃亡しました。我が軍はアガルタ軍に、包囲されました」
ヒョウは包囲、という言葉に力を込めた。その言葉にまるで促されるようにブレイは立ち上がり、陣幕の外に向かった。そこは信じられない光景が広がっていた。
つい先ほどまで犇めいていた兵士たちが、まるで雲霞のごとく消え失せていた。本陣の周囲には数百名の兵士たちが隊列も整えぬまま、呆然と立ち尽くしていた。そのすぐ前には、隊列を整えた黒い鎧を装備した兵士たちが犇めき、槍を構えていた。
それは、ブレイの前にも、左右にも配置されていた。彼は血の気が引いていくのを自分でも感じ取っていた。そんな彼に、後ろから追いかけてきたヒョウが言った。
「我らはアガルタ軍に囲まれてはいますが、背後は空いています。退路は断たれておりません。撤退は、可能です。察するに敵は、我らに王都への撤退を促しているものと思われます。国王様」
ブレイはヒョウの言葉に反応せず、ただ黙って目の前のアガルタ軍を睨みつけていた。
一方、撤退は可能と言ったヒョウも、そうは言ってみたが、それは難しいと感じていた。そもそも、今のブレイは足に受けた傷のため、満足に動くことができない状態だった。馬に乗れぬ以上、撤退するには、輿に乗るか、家来たちに抱えられるかのどちらかであったが、いずれにせよ、その速度は人の歩く速さ程度でしかない。そんな状況を果たしてアガルタ軍が見逃すかと言われれば、彼の答えは否だった。
不気味な静寂が訪れていた。ただ、風の吹く音だけが、彼らの耳に聞こえていた。
突然、カシャカシャと金属がこすり合う音が聞こえた。見ると、正面の軍勢の中から銀の鎧を装備した小柄な兵士が出てきた。その後ろからは黒い鎧を装備した、五名の屈強そうな兵士たちが付き従っていた。
その一団は足早にこちらに向かって歩いてきた。デウスローダの兵たちは抵抗らしい抵抗もせずに、おずおずと彼らに道を開けた。
「け、結界師!」
親衛隊のヒョウがそう言いながら部下を伴ってブレイの前に出た。従軍していた結界師たち三名がすぐさま彼らに結界を張った。ちょうどそのとき、アガルタの一団がこちらに到着した。
「アガルタ軍のマトカルだ」
銀の鎧を装備した兵士がそう言った。よく見ると、それは女性だった。彼女だけが兜をかぶっていないため、その端正な顔立ちがよく見えた。
マトカル、と聞いてヒョウは眉間に皺を寄せた。当然その名は知っていた。アガルタの最高司令官にして、アガルタ王リノスの妃だ。死んだウジョーが手放しでほめていた女性だ。なるほど、威厳に満ちた、いかにも上級将校らしい風貌だった。
一瞬、ヒョウはこの女性を人質にとって、彼女を盾に王都まで撤退することを考えたが、すぐにその考えを打ち消した。彼女から発せられる雰囲気が尋常ではなかったし、その彼女を守る兵士たちもまた、身に纏う雰囲気が異様そのものだった。
下手な動きをすれば、一瞬で斬り伏せられる。戦っても勝てる相手ではなかった。
マトカルはヒョウら親衛隊の兵士を一瞥すると、立ち尽くしているデウスローダ王ブレイに視線を向け、そして、よく通る声で口を開いた。
「我が王が話し合いをしたいと言っておいでだ。本陣までおいでいただきたい」
言葉は丁寧だが、実際は命令だった。しかもその言葉の裏には、命令に従わねば命の保証はないという意味を含んでいることは、そこにいる誰もが理解できた。
だが、ブレイはマトカルを睨みつけたまま微動だにしなかった。彼は怒っている風でもなく、屈辱に耐えている風でもなかった。眼を見開いて、何かに驚いたような表情を浮かべていたのである。
再び、不気味な沈黙が訪れた。ややあって、国王ブレイは絞り出すようにして口を開いた。
「……待って、くれ」
「待っている」
マトカルは淡々としていた。一切表情を崩すことがなかった。怒るわけでもなく、懐柔するわけでもなく、ただ、冷たい目でブレイを眺め続けていた。親衛隊のヒョウは、何とかしてこの状況を脱することを考え続けていた。国王をアガルタの陣に向かわせるのは非常に危険であると考えていた。そこで国王が斬られてしまえば、この戦いは完全に敗北したことになるし、この、デウスローダ王国の存亡にもかかわるのだ。彼は、何とかして王の身の安全だけは守らねばならないと考え、それをマトカルにぶつけた。
「た、ただ今、話し合いと言われましたが、アガルタ王におかれては、我が王を、いかになさるおつもりか。我が王の身の安全は、保障していただけると信じて、よろしいのか」
「それを決めるのは、私ではない」
にべもなかった。ただ、ここで引き下がるわけにはいかなかった。幸いにして、結界師たちは無傷のままであった。彼は王に耳打ちをした。
「国王様に仕える者を伴うのは、よろしいですな?」
「勝手にせよ。それよりも、早く返答をしてもらいたい。先ほどから我々は待っている」
高圧的な態度だった。ブレイの人生の中で、これほどの扱いを受けたのは、亡き父以外では初めてのことであった……。