第九百二十三話 アガルタ VS デウスローダ
戦いは、デウスローダ軍の司令官、ジカが兵を率いてアルレ攻撃に向かったときから始まった。ブレイ王はアガルタへの総攻撃を主張したが、アルレへの牽制もしておくべきであるとのウジョーらの意見を容れての出兵だった。
それまで山を背にして動かなかったアガルタ勢が急に動き出した。アルレに向かうジカの軍の後を衝こうとして、アガルタ軍の一隊がアルレに向けて移動していった。
「よし、今の機を失せず、左翼のウジョーは敵の右翼を衝け」
ブレイは近習に命じた。
ウジョーはブレイの命令を受けて突き進んだ。総司令官は王の傍近くにあって、軍全体を監督するのが通常だが、その役目は親衛隊長たるブアリが勤めていた。これはかなり異例のことであると言えたが、敵がアガルタ軍である点から、デウスローダ軍で最も勇猛で、兵の指揮に優れた者を先陣に充てたのである。
そのウジョーの進撃と同時に、アガルタ軍は一斉に前進の気配を示した。
だがこのとき、ジカの軍の後を追っていこうとしたアガルタ軍の一隊が、突然廻れ右をして、動き出したウジョーの側面を衝いた。ウジョーの側面は崩れた。ウジョーらはアガルタ軍の右翼を包囲しようとして逆に包囲されたのだ。ひとたびデウスローダ軍の左翼隊に乱れができると、アガルタ軍はその弱点に向けて強兵をつぎつぎとつぎこみ、デウスローダ軍の背後へ廻ろうとした。デウスローダ軍の背後には山はなく、草原が広がるばかりだったから、回り込もうとすればそれができたが、山を背にして動かないアガルタ軍の本陣は、いくらデウスローダ軍が攻めても動こうとしなかった。それは背水の陣ではなく、背山の陣であった。
アガルタの本隊は、山や木立を背にして高いところから近づいて来るデウスローダ軍に矢を射かけ、魔法で反撃し続けた。加えて、本陣をはじめとする部隊には強力な結界が張られており、デウスローダ軍の攻撃を一切受け付けないばかりか、ある地点から歩を進めることさえもできない有様だった。そうして足を止めた兵士に対してアガルタ軍は、容赦ない攻撃を仕掛けていった。一見すると、デウスローダ軍がアガルタ軍を包囲しようとしているようにも見えるが、その実は、アガルタ軍のすぐ手前で、デウスローダ軍は累々たる死体の山を築いていたのだった。
このような状況になると、背後から襲われる心配のない地形を背負っているアガルタ軍の方が有利となり、デウスローダ軍は左翼から背後に回り込まれてじりじりと退いていった。
ジカの軍勢は、ウジョーの急を聞いて引き返そうとすると、アルレからネルフフ勢が出てきて背後から襲い掛かるので、動くこともできずに町に釘付けにされたままであった。
左翼隊苦戦と見て、デウスローダ王は、親衛隊であるラエルの予備隊を救援に廻そうとした。
だがそのとき、さらによくないことが起こった。それまで、守備一方だったアガルタ軍全軍が突然攻撃に移ったのである。それも、デウスローダ軍の中央へ向けての全力突撃であった。
デウスローダ軍は鶴翼の陣形を敷いていた上に、本陣を守るラエルの部隊が左翼に移動を始めていた。デウスローダの攻撃は敵の右翼に集中しようとしていたそのときに、中央に空白地帯が生まれたのである。その隙を、アガルタが突いた。
山を背にしていた、本陣と思われる部隊が攻撃に移り、それに続いて、敵の左翼をはじめとする、まだ戦闘に参加していない部隊が攻撃に加わった。その速さは尋常ではなかった。むろん、デウスローダ軍も指をくわえて見ていたわけではない。すぐに追撃に移ったが、アガルタの騎兵はそれをいとも簡単に振り切った。
彼らは見る間にデウスローダ本陣に到達すると、ひとりひとりが物も言わず突っ込んできた。その有様は、それまでになく凄まじかった。さらにもう一つ不思議なことは、アガルタ軍の戦いぶりだった。アガルタ軍は、将兵ことごとく無言で突っ込んできた。名乗りも挙げず、突き伏せた相手の首級もあげず、ただ、一途に本陣を目指して突っ込んでくる様子は、気が狂れた者の集団としか見えなかった。しかも、その先頭を走る、白の駒に跨り、銀の鎧を装備した小柄な騎士が、次々とデウスローダの騎兵たちをなぎ倒して道を開いていく様は、さながら鬼神のごときであり、この騎兵の働きが、アガルタ軍の狂気をさらに煽っているようにも見えた。
「国王様、お引きください! ここは私が引き受けますから、お引きください!」
親衛隊長のブアリが叫んだ。
とても考えられない戦いだった。アガルタ軍は今まで見たこともない戦いぶりを見せたのだ。デウスローダの常識では、戦いは敵の首をなるべく多く挙げ、できることなら大将首を挙げることによってそれ相応の、土地や金額や名誉を与えられる。要するに戦いは敵の首を獲ることが目的であって、それがなければ、戦う意味がなくなるのだ。ところがアガルタ軍は、その首を欲しがらずに、しゃにむに中央目指して攻め込んでくるのだ。彼らの常識では考えられない戦いぶりだった。
三騎が馬を連ねてブレイの本陣に向かって真っすぐに駆け込んでくるのが見えた。ブレイの親衛隊が前に出て立ちふさがり、三騎と戦いが始まった。先頭にいた騎士は槍を振るっていたが、その有様はどう見ても、デウスローダ軍を憎悪しているようにしか見えなかった。まるで、親の仇を攻撃しているかのような戦いぶりだった。
「国王様! 今のうちに陣を引いて、立て直さねばなりません。早く!」
親衛隊長ブアリは国王ブレイの手を取っていた。
「退くのか! 陣を!」
ブレイにとっては、未だ一度もないことだった。戦えば必ず勝つ戦いしかして来なかったブレイが、陣を退くなどと言うことは考えられなかった。
甲をかぶらず、頭髪を振り乱した部将らしき騎馬武者が、その部下と思しき三名の者を引き連れて斬り込んできた。兵士の一人がブレイに向かっていきなり斬りかかった。ブレイは剣を抜いて敵を防いだ。
「貴様が大将か!」
男がそう言って斬り込んできた剣を受け損じて、ブレイは太もものあたりに傷を受けた。痛みは感じなかったが、血が噴き出して、彼の足は見る間に血に染まった。ブレイの本陣がわかったと見えて、次々とアガルタ兵が襲い掛かってきた。もはや、そこにそうして居られるような場合ではなかった。
ブレイは家来に抱えられながらその場を離れ、本陣を右翼に移した。本隊が右翼に移ったことによって、ウジョーらは完全に孤立した。ウジョーは敵の包囲に陥った。
「ウジョーを救え! ウジョーを殺してはならぬ!」
ブレイはそう叫んだが、混乱の中にウジョーを救うことはできなかった。それどころか、ブレイが命令を下していないにもかかわらず、右翼を守る軍勢がじりじりと退き始めた。ブレイは大声で退くな退くなと繰り返した。
「国王様、ここは一旦、離れましょう。この場に留まりましては、乱戦に取り込まれます。一旦退いて、軍勢を立て直すのです」
右翼を守っていた親衛隊のヒョウが片膝をついて王に進言した。彼は、王の命令を待つことなく再び立ち上がると、周囲にいた兵士たちにゆっくりと後退せよと命じた。ブレイは何かを言おうとしたが、二人の兵士が素早く彼の両脇に回り込んで彼を立たせ、まるで、引きずるようにしてその場から後退していった。
一連の戦いは、時間にして僅か一時間にも満たなかった。アガルタ軍の疾風迅雷の速さに、デウスローダ軍の大半は戸惑うばかりだった。彼らが一旦陣を立て直したときには、その軍勢の規模は半減していたのである。
総司令官ウジョーは、全身に槍と刀傷を受けてブレイの本陣にかつぎこまれた。重症のウジョーが、ブレイの本陣に連れて来られたときにはまだ呼吸をしていた。
「国王様ご健在で大……」
おそらく大慶至極と言おうとしたのだろう。それがウジョーの最期の言葉となっていた。
親衛隊長ブアリは、デウスローダ軍の兵士たちの死骸と共に折り重なるようにして死んでいた。鬢の黒髪が風に揺れていた。
ブレイは涙を出さなかった。泣き言も言わなかった。彼は二人の宿将の死骸をじっと見つめているだけで、一言も発しなかった……。