第九百十九話 命がけ
マトカルの表情は変わらない。だが、体から発する雰囲気が先ほどまでとは全く違ったものになっている。男は顔を真っ赤にして、何か言いたげな表情を浮かべているが、その雰囲気に押されて、何も言えなくなっていた。
「お前は私の質問に答えるのだ。用件は、何だ」
マトカルの左手が剣の柄を握った。左手で剣は抜けないことは周知のとおりだが、今の彼女の雰囲気からは、何か気に障るようなことを言えば、即座に首を刎ねるといった感情が見て取れた。
男はしばらく無言のままでいたが、やがて、さも仕方がないと言わんばかりの言い方で口を開いた。
「国王様にあらせられては、近日中にアルレに総攻撃をかけると仰せです。その際、アガルタ軍にも攻撃に参加いただきたい。加えて、兵糧を少々融通していただきたい、というのが、我が王からの口上です」
「それだけか」
「国王様からのお言葉は以上だ」
「そうか。では、帰っていい」
「……アガルタ王様からの返答をいただきたい」
「改めて返答する」
「兵糧だけでもいただきたい」
「それも、後ほど返答する」
男はマトカルと話していても埒が明かないと判断したのか、リノスに視線を向け、少し語気を強めて、ご返答を、と迫った。リノスは一瞬、虚を突かれたような表情を浮かべたが、やがていつもの表情に戻ると、一切感情を込めずに口を開く。
「役目、大儀である」
「兵糧を、受け取りたく存する」
「役目、大儀」
「……」
「使者殿のお帰りだ」
マトカルが、まるで命令を下すように口を開く。男は苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべながら、彼女を睨みつけた。
「……一つ、聞きたいことがある」
「お連れしろ」
マトカルの言葉に、男を取り押さえていた兵士たちは、力づくで彼を立たせた。だが、男は怯まない。
「アワジが、あのアワジがここに来た理由は何だ! アガルタに何を頼みに来た!」
だが、マトカルは男の言葉に一切耳を貸さなかった。彼女は右手をヒラヒラさせて、兵士たちにその男を下がらせと促す。その命令を受けて兵士たちは、男を拘束したまま、無理やりにその場所を後にしていった。
男は仕切りの外で何やら喚いていたが、その声はだんだん遠くなり、やがて、聞こえなくなった。
辺りが静かになると、マトカル、クノゲン、ホルムの三人は元の場所に腰を下ろした。再び、何とも言えぬ沈黙が訪れる。
「兵糧を求めてきましたね」
沈黙に耐えられなかったホルムが口を開く。クノゲンが苦笑いを浮かべる。
「そうだな。兵糧を求めてきたな」
「これで、デウスローダに余裕がないことがよくわかったな」
マトカルが無表情のまま呟く。その言葉に対して、リノスは腕組みをして天を仰いだ。
「リノス様、何かあるのか?」
「いや、兵糧は十分にあるんじゃないかな、と思ってね。ただ、兵糧はあるけれど、できるだけ自軍のものは消費したくない。手っ取り早くアガルタから支援してもらおうという考えじゃないかな、と思ってね」
「まあ、アガルタ軍の兵糧はまだまだ余裕がありますからな。それに、最悪の場合、リノス様の転移結界を使えば、都からいくらでも兵糧は補充できますので、我々は無尽蔵ではありますな」
「クノゲンもマトもホルムも、最悪の場合、俺の転移結界で逃げられるとタカを括っているな?」
「そんなわけはありません」
「本当か?」
リノス、クノゲン、ホルムの三人は同時に笑い声を上げた。だが、マトカルだけが無表情を貫いていた。
「私は、もし、デウスローダが攻撃を仕掛けてきても、それを撃退して帰国したい。我が軍の兵士は、それだけの力量がある」
「ほう、勇ましいことだな。……いや、別にマトを責めているわけではない。寡兵で大敵を撃退するというのは、優秀な兵士、優秀な指揮官がいなければできないことだ」
「私に、作戦がある」
「ほう、聞こうか」
そのとき、失礼しますと言う声と共に、兵士に連れられたアワジがやって来た。
「ポーセハイのスエザ殿に診ていただいたところ、鞭で討たれた腕が腫れていましたので、薬を塗って包帯を巻いています。その他の怪我は見当たりませんが、落馬をした衝撃もあることから、二三日は安静にするようにとのことでした」
「ああ、ご苦労様でした。大変でしたね、いきなり鞭で打たれるとは。さぞ、驚かれたことでしょう」
「いいえ。この国では、軍人を見ると必ず下馬しなければなりません。私があの方に気づくのが遅かったのです。それに……」
「それに?」
「ネルフフに占領され、城門が閉じられている中で、私一人がこのアガルタの陣にいることは、どう考えても不自然です。あの方が私を鞭で打ったのも、そのためだと思われます」
「ああ、確かに、何をしに来たとか何とか言っていたな……」
「私はもう、大丈夫ですので、ご心配いただかなくても大丈夫でございます。アガルタ軍の皆様が止めていただかなければ、私は下手をすると、あそこで死んでいたかもしれません。国王の許に参る前に命を落とすところでした」
「うん? 国王の許? アワジさん……まさか、今から国王の許に向かうつもりなのですか?」
「はい。これから国王の許に向かい、我らの決意を伝えに参ります」
「……殺されますよ?」
「私を殺せば、アルレの者たちはことごとくデウスローダに歯向かいます。国王が私の言葉を聞き入れて兵を引けばそれでよし、私を斬れば、町の者たちも決死の覚悟を固めましょう。どちらに転んでも、我らに損はございません」
アワジはそう言って笑い、深々と頭を下げてその場を後にしていった。
「……彼は、殺されるな」
彼が去った後、リノスは誰に言うともなく呟いた。その言葉に、マトカルらは静かに頷く。
「あの王は、民衆の言葉に耳を貸す男ではない。それができるのであれば、この国で飢饉などは起きないだろう」
「マトの言う通りだな。ただ……あの男の命を奪えば、間違いなく、この戦いは長期化する。アガルタ軍が参戦すれば、早期決着はするだろうが、俺にその気はない。そんなことをした日には、アルレの民衆から子々孫々まで憎まれて呪われる。命がいくつあっても足りないよ」
「ど……どうしましょうか」
「どうしようかな。ホルムは、どうしたらいいと思う」
「そんな……私は……。ただ、あのアワジ殿の命が奪われれば、それこそこの戦いは泥沼化します。それを防ぐためには……あのお方に、リノス様の結界を張るのがよいと……」
「なるほど。それはいいかもしれませんな」
「だが、もう彼は行ってしまったが……どうしようかな」
「今から追いかけて、結界石を渡せばよいかと思います」
「いや、それだけではダメだろう」
マトカルが口を開く。彼女は周囲に視線を向けながら、さらに言葉を続ける。
「例え、結界で物質的な攻撃を防げたとしても、そのまま拘束されてしまえば、同じことだ。アワジ殿の安否がわからない内に攻撃を加えれば、アルレの軍勢に大きなダメージを与えられるだろう」
「なるほど。マトの言うことも一理あるな」
リノスはそう言うと腕組みをして、何かを考える素振りをした。だが、すぐに元の態勢に戻った彼は、スッと立ち上がった。
「では、アワジさんを連れ戻そう」
「リノス様が? おん自ら?」
ホルムが目を丸くして驚いている。そのとき、マトカルも一緒に立ちあがった。
「私も行こう」
「マ……マトカル様」
「クノゲンとホルムはここに残れ。なあに、すぐに戻る。ただ、状況は変わるかもしれない。そのときのために、準備を怠らぬようにしておいてくれ」
マトカルの言葉に、ホルムはあんぐりと口を開けて彼女を眺めた。その様子を見て、リノスとクノゲンは苦笑いを浮かべた……。