第九百十八話 平伏せよ
「これまで、デウスローダ王国には、様々な形でお仕えして参りました。しかしながら、王国は、王は、我ら民に何もしてくれませんでした。一方で、ネルフフ王国には、我らの危機を救って下さいました。これから先は、ネルフフ王国にお仕えする。これは、私をはじめとした、アルレに住まう者全ての、総意でございます」
アワジの言葉に、誰も口を開く者はいない。ややあってリノスが、ゆっくりとした口調で口を開いた。
「……わかりました。アガルタ軍は、アルレの町には攻撃を仕掛けないことを、この場で約束しましょう」
「ありがとう存じます」
「ただ……」
「……」
「それを、デウスローダ王国は認めるだろうか?」
「認めないでしょうね」
「戦いになりますね」
「覚悟の上でございます」
「勝てますか?」
「……ご懸念はごもっともです。我らはネルフフの軍勢五千のみ。対して、王国の軍勢は三万。どう見ても勝ち目はございません。それが、狙い目なのでございます」
「どういうことだろうか?」
「これは……アガルタ王様だけにお伝えしますが、我らアルレの者たちは、全員、武器を取って戦うつもりでおります」
「……何ですって?」
「アルレの町には約、二万の者たちが住んでおります。私を含め、その者たちと合わせれば、軍勢の数は二万五千。町に閉じこもって戦えば、ある程度の戦果は挙げられると考えております」
「それは、ネルフフ王国の作戦、でしょうか」
「いいえ。我らが決めたことです。ネルフフ王国のフィレット王女様は、即座にその必要はないと言っておいででしたが、我らは決めたのです。女・子供に至るまで、武器を取り、王国軍を撃退する覚悟でございます」
リノスは腹の中で唸っていた。これは、一歩間違えばアルレの町で大虐殺が起こりかねない。そして、その後に待っているのは、血みどろの長い復讐戦だ。
「なるほど、デウスローダの状況を逆手に取ると言うことか」
不意にマトカルが口を開く。皆の視線が彼女に集中した。
「今のデウスローダは兵糧不足だ。一週間も耐えれば、今回の攻撃は回避できる」
「ご明察でございます」
アワジは恭しく一礼した。だが、マトカルは一切表情を変えずに、さらに言葉を続ける。
「だが、今回の攻撃は回避できても、デウスローダはアルレを諦めはしないだろう。奪還できるまで、何度も、何年もかけて攻撃を繰り返す。これから先、終わりの見えない戦いを続けていく覚悟はあるのか」
「……致し方ございません」
「要は、そこまでデウスローダは、あの王は嫌われているということだ。おそらく、自分たちが立ち上がれば、デウスローダの国内から自分たちに呼応する者たちも現れるだろうという目論見もあるのかな? 内乱状態になれば、王国としても、アルレだけに兵力を割くことはできなくなるからな」
「なるほど、そういうお考えがありましたか。我々はそこまでは考えが及びませんでした」
アワジはさも驚いたような表情を浮かべる。その様子を見たリノスは苦笑いを浮かべる。
「それでは、私はこの辺で失礼します。我らの願いをお聞き届けくださりまして、感謝申し上げます」
アワジはそう言って深々と一礼した。
彼が去った後、リノスを含めた四人は、しばらくの間無言のままだった。彼らにとって、これから先のアレルの状況は決して楽観視することはできず、むしろ、よくはない状況になる可能性が高いと考えていた。
どのくらい無言の時間を過ごしたことだろうか。ふと、何やら言い争う声が聞こえてきて、我に返る。軍規厳しいアガルタの陣でこうした声を聞くのは、珍しいことと言えた。
一体何事だとマトカル、クノゲン、ホルムが立ち上がる。言い争う声はどんどんこちらに向かって近づいてきた。そして、仕切りの幕が勢いよく開かれると、アガルタの兵士に取り押さえられた男と、アワジが現れた。
「どうした」
マトカルが口を開く。喚いている男は二人の兵士に両手を押さえられたまま、無理やり彼らの前に座らされる。アワジの傍にも一人のアガルタ兵が付き従っているが、彼は特に何の拘束もされていなかった。
「申し上げます。我が陣の傍で騒動がございましたので、取り押さえました」
「騒動?」
「ハッ。アルレの町衆、アワジ殿が馬に乗って出立しようとしていたところ、この者が馬に乗ってやって参りました。この男はアワジ殿を見ると近づき、持っていた鞭でアワジ殿を打ったのでございます」
「えらい乱暴な話だな。アワジさん、ケガはなかったですか?」
「私は……大丈夫です」
「アワジ殿は、鞭で討たれた際、馬から落ちておいでです。一度、医師に診ていただいた方がよろしいかと思います」
男を取り押さえているもう一人の兵士が口を開く。リノスはその言葉を受けて、従軍しているポーセハイに診てもらうように促した。アワジは大丈夫だと言っていたが、側に付いている兵士に促される形で、その場を後にした。
目の前には取り押さえられている男が残った。彼はひたすらに放せ放せと喚き続けていた。
マトカルは取り押さえている兵士たちに向かって顎をしゃくる。と同時に、リノスの前にホルムとクノゲンが前に出た。これは万が一のときにリノスを守る態勢を取るのと同時に、何か不穏な様子を見たときには、すぐにこの男を斬る態勢でもあった。それは兵士たちも同じで、彼らは男から手を放しても、その傍からは離れなかった。つまりは、一瞬で男に致死の斬撃を叩き込める位置に留まったのだ。
拘束を解かれた男は、自分を囲む者たちを一人一人睨みつけ、最後に、その後ろに控えている、自分を拘束していた兵士たちを睨みつけた。しかもそれは、少々長めの時間を取っていた。
「で、おたくは、どちら様で?」
リノスが口を開く。男はゆっくりとリノスに視線を向けると、スッと立ち上がり、さも尊大な態度を見せながら口を開いた。
「私は、デウスローダ国王の使者を勤める、ダウロという者で……」
「平伏せよ」
男の言葉を聞き終わる前にマトカルが口を開いていた。彼女は男に鋭い視線を向けているが、彼は一瞬だけマトカルに視線を向けたが、すぐにリノスに視線を戻した。
「私は……」
「平伏せよ」
再びマトカルが男の言葉を遮る。その声には一切の感情が込められていなかった。その迫力に男の目にはうっすらと恐怖の色が浮かんでいた。
「これが最後だ。平伏せよ」
男は黙ったままだ。そのとき、マトカルが顎をしゃくった。すると、男の後ろに控えていた兵士たちが再びその手を取った。
「王の御前である。控えよ」
二人はそう言って男を無理やり跪かせた。
「いや、別に俺は姿勢にはこだわらない。放してやってくれ」
リノスが口を開くが、マトカルは振り返ると、毅然とした様子で口を開く。
「そうはいかない。リノス様は我らの王なのだ。その王の前に無礼な態度を取ると言うことは、リノス様が蔑ろにされたことになる。それはつまり、我々を蔑ろにしたことになり、ひいては、アガルタという国自体を蔑ろにしたことになる。それは、許されないことだ」
リノスは、何とも言えぬ表情を浮かべて無言のまま大きく頷いた。
「で、デウスローダ国王の使者が、我々に何の用だ」
マトカルは振り返ると、男に向かって口を開いた。その声は威厳に満ちていた。
「わっ……私にこのようなことをして、無事で済むと思っているのか。私は、デウスローダ王国国王様の使者である。私の言葉は即ち、国王様の言葉である。貴様らは、その私を、このように無礼な振る舞いをしているのだ。それは即ち……」
「私は用件を聞いている。お前の立場を聞いているのではない」
男の顔が真っ赤に染まっている。マトカルの後姿から何か、湯気のようなものが立ち昇っている気がしていた。その様子を見てリノスは、心の中で呟いた。
……怒った女子は、怖いな。