第九百十七話 高みの見物
デウスローダ王国国王ブレイは、思わず舌打ちをした。アガルタの陣が予想とは全く違った場所にあったのだ。
彼らは今、アルレの町から約二キロの位置に布陣していた。遠くには町を守る城壁が見えている。
至近距離と言ってよかった。ここに至るまでの間に、ネルフフ軍からの攻撃は一切なかった。それはデウスローダ軍にとって想定の範囲内の出来事だった。アガルタ軍五千を加えた、三万五千の規模となったデウスローダ軍に、僅か五千の兵で決戦を挑むのは自殺行為以外の何物でもない。ここは町に籠って籠城するというのが、定石と言えた。
国王ブレイは、軍勢をアルレの町の近くまで進めた。大軍勢を見せつけることで、敵の気力を削ごうという作戦だ。彼の頭の中には、アガルタ軍を自軍の前に出して示威行為を行うつもりであっが、そのアガルタは、南のイシ山の麓に陣を張っていた。
……どこまでもこの儂を蔑ろにしおって!
彼は心の中でそう呟いていた。デウスローダ軍と行動を共にせず勝手にアルレに向かい、使者を通じて命じた位置にも陣を張らず、あのように離れた場所に陣を張っている。これでは、デウスローダ軍三万の中にアガルタ軍を取り込み、ブレイが自在にアガルタ軍を操るという目論見を果たすことができない。これは王に対して不敬な態度であり、王に対する不敬は国家の反逆につながる。これが家来ならば、即刻首を刎ねている行為だ。彼は一瞬、アガルタ軍に攻撃を仕掛けようかとも考えたが、さすがにそれは自重した。
……つまりは、高みの見物を決め込むつもりなのだな。
彼は腹の中でそう呟き、まあ、よいわと自分を納得させた。元々アガルタは兵糧を運ぶ荷駄隊としての参戦だ。戦闘に巻き込まれない場所に避難するのは、当たり前と言えば当たり前の行動であると言える。だが、それでも、国王ブレイはアガルタの態度が徹頭徹尾、気に入らなかった。
……いつの日か、アイツらに己の立場をわからせてやらねばなるまい。
ブレイはアルレの町を見据えながら、せわしなく足を動かした。
一方、総司令官を勤めるウジョーは、アガルタ軍の陣を見て、ホッと胸を撫で下ろしていた。
王の思惑は彼はちゃんと把握していた。だが、所詮アガルタ軍は援軍だ。しかも、彼らの士気は低いと見ていた。戦う気のない軍勢を前面に置いたところで、役に立たないことは火を見るよりも明らかだ。もし、王の命令通り、アガルタ軍が前面に布陣していたら、自分がネルフフの立場ならば、乾坤一擲、そこをめがけて突撃する。アガルタ軍は即座に撤退するだろう。そうなれば、前面に大きな穴が開いて、王の命までもが危機に晒されることになる。ウジョーは遠いアガルタ軍に向かって、心の中で礼を言った。
「申し上げます」
司令官の一人、ネチャが口を開いた。王は貧乏ゆすりを続けたまま、彼に視線を向ける。
「アルレに使者を遣わしてはいかがでしょうか」
「……」
「戦わずに済めば、結構な話であるかと愚考します」
「……条件は、何といたす?」
「ネルフフ軍の撤退、この一点だけでよろしいかと存じます」
「余は、三万の軍勢を率いておるのだ。何の成果も挙げずに、おめおめと帰還せよと申すのか?」
「いいえ、そうは申しません。我が軍の兵糧も心もとない状態でございます。こうした状況下において、国王様が一滴の血も流さずに矛を収めたとなれば、後々までの語り草となろうかと考えます」
「ウジョー、貴様はどう思うのだ」
「ネチャの申す通りかと思います。戦わずして勝つ、というのが最も優れた勝ち方です。我々は一刻も早くアルレを解放し、民を救わねばなりません」
「……わかった。よきに計らえ。ああ、アルレの解放がなった暁には、すぐにアガルタ軍をアルレに入れよ。そこで民たちに兵糧を配るよう命令しておけ」
「承知しました。それでは、使者には私が立ちましょう」
ネチャはそう言って一礼した。その彼に王は、さも面倒臭そうに手をヒラヒラさせて、早くアルレに向かように促した。
◆ ◆ ◆
「……ここらが退きどきではありませんか?」
一時間後、ネチャは軍使としてアルレに向かい、ネルフフ王国軍の指揮を執るフィレット王女の前に控えていた。彼は柔和な笑みを浮かべながら、さらに言葉を続ける。
「本格的な冬が到来すれば、損をするのはネルフフ側でございましょう。氷に閉ざされて帰るに帰られなくなります。我が王は、このままネルフフ軍が退却してくれさえすれば、攻撃は行わないと言っておいでです」
「お引き取り願おう」
「お待ちください、フィレット様。よくお考え下さい。ネルフフ軍は五千、我が方は三万。加えて我が軍にはアガルタ軍が参戦しております。都合三万五千の軍勢と、五千の軍勢とでは戦いになりません。もし、我が軍が攻撃に移れば、このアルレの町は二日ももたないでしょう。そうなれば、ネルフフ軍に大きな損害が出るでしょうし、あなた様のお身もただでは済みますまい。ここが退き時ですぞ」
「心配いただくのはありがたいが、お断りしよう。アルレを、この町を、デウスローダに返すつもりは、ない」
二人の会談は、あっけなく終わった。
自軍に帰る道すがら、ネチャはフィレットが見せた態度が理解できなかった。彼の中では、この戦いを続けることは、両国にとって何のメリットもないものだった。にもかかわらず、フィレットがどうしてあれほどの強気な態度に出るのか……。彼にはその真意が測りかねていた。
……そう言えば、あの町衆の代表であるアワジの姿を見なかったな。
彼はふとそんなことを考えたが、それは、今、考えることではないと、頭の中を切り替えた。彼には、この報告を聞いた王がどのような無茶な命令を下すのか、それが気がかりだった。
◆ ◆ ◆
そのアワジは、リノスの前に片膝をついていた。
「初めて御意を得ます、アルレの町衆の長を勤めます、アワジと申します」
挨拶を受けてリノスは鷹揚に頷く。彼の傍には、愛妾マトカルをはじめとして、クノゲン、ホルムと最高幹部が顔を揃えていた。
「この度、罷り越しましたのは、アガルタ王様にたってのお願いがあって参りました」
「聞きましょうか」
「恐れ入りますが、アルレの町が戦闘状態に入りましても、アガルタ軍は参戦しないでいただきたい。このまま、高みの見物をなさっていただきたいのです」
「うん? どういうことだろうか?」
アワジの話は、リノスの予想を大きく超えるものだった。彼はてっきり、兵糧を援助してくれと言ってくるものだと思っていたが、アワジはただ、動いてくれるなと言ってきたのだ。
もとよりリノスは、この戦いに参戦する気など毛頭なかった。むしろ、ネルフフ軍が撤退した後でアルレの町に食糧支援を行い、それがある程度完了したら、すぐにアガルタに向けて撤退しようと考えていた。その際、町や村を廻って食糧支援をするかどうかを考えていたところだった。
「どういうこともなにも、先ほど述べた通りでございます。アガルタ軍は参戦しないでいただきたい。それだけでございます」
「食料は?」
「問題ございません」
「アルレの町は豊作だった、それとも、備蓄してあった兵糧を開放したということだろうか」
「いいえ。アルレも他の町と同様、飢饉が起こる寸前でした。ですが、それをネルフフ王国のフィレット王女が救ってくださいました。あのお方は、強風の中、船で兵糧を運び込んでくださいました。お陰で我らは命を繋ぐことができたのでございます。我々は……もう、ニ度とデウスローダ王国に仕えたくはございません。我らは、死ぬまで、ネルフフ王国にお仕えしたいと願っているのです」
アワジの口調は淡々としていたが、その眼には、悲壮な覚悟が見て取れた。