第九百十五話 野営
デウスローダ王国軍総司令官ウジョーは、野営するアガルタ軍の様子を、じっと観察し続けた。いや、実際は目を離すことができなかったと言ってよかった。彼が見惚れてしまう程に、アガルタ軍の統率は完璧だった。
すべてにおいてそれらは彼の予想を上回る速さで完了していた。野営の設営、食事の準備、そして、アガルタ軍五千を守る警備兵の配置……。それらはどれも迅速で無駄のない動きで行われた。これだけ見ても、この軍勢が相当の訓練を詰んできたことがわかる。しかもそれは、ウジョーの予想だにしない方法で行われている部分もあった。それは、多くの実戦を踏んできたからこそ為せる行動であることは、彼にはよくわかった。
例えば、食事を摂る際には、アガルタ軍は円形に座っている。対して、デウスローダ軍は皆が集まって車座になり、顔を寄せ合って話をしながら食事を摂る。こういうときに敵に襲われれば、部隊は大混乱に陥るが、アガルタのように四方に注意を払いながら食事を摂ればスキはなくなるのだ。
さらに彼を驚かせたのは、アガルタのトイレとゴミの処理だった。アガルタの野営地を練兵場に決める際、国軍の将校たちからは反対意見が多かった。彼らは城の外で野営してもらうべきであるという意見が大半を占めた。それは言うまでもなく、ゴミとトイレの問題であった。将校たちは、練兵場がゴミと排泄物だらけになることを嫌っていた。
手洗いの問題に関しては、隣接する軍の施設を使用させることとした。だが、その全てを開放したとしても、五千の人間のそれを処理するには、圧倒的に数が少ないと言えた。それに、場所によっては、秘匿性の高い部屋もあり、すべての手洗いを使用させるわけにはいかない。そう考えると、特に使用頻度が上がる朝などには、兵士たちが殺到して長い列ができて、軍の業務に支障が出ることは容易に想像できた。
しかし、アガルタ軍はそうした問題を起こさなかった。彼らは練兵場の隅にいくつもの穴を掘り、そこにテントを設えた。ウジョーたちは最初、それが何であるのかがわからなかったが、話を聞けば、それらは、手洗いとゴミを集める場所であるという。
土の中に埋めてしまえば、それらは最後には土に還ることになる。説明を聞いたウジョーはなるほどと膝を打ったが、話はこれで終わらなかった。実際のアガルタ軍は排泄物とゴミを、結界石を使ってアガルタの処理場に転移させていた。その施設はメイが学長を務めるアガルタ大学が管理しており、それらはそこで処理されて、あるいは肥料となり、あるいは土となって自然に還されていた。
結果的に翌日、アガルタ軍が出発した後には、練兵場は、彼らが使用する前の状態に戻されていた。この一連の態度は、デウスローダ軍を大いに感嘆させたのだった。総司令官ウジョーは、このことをすぐさま国王に報告したが、彼は興味を示すことはなかった。
一方、リノスたちはその野営地で、長い時間戦略を練っていた。
彼らはデウスローダ軍から提供された地図と、リノスのマップスキルを突き合わせながら、アルレへの行軍ルートを話し合った。
このアルレという地は、攻めるに易く守るに難い地であるというのが、リノスたちの一致した見解だった。南側に大きな山があるが、障害物と言えばそれくらいで、北と東は海に面しているが、西側は広い草原が広がっている。大部隊を送られてしまえば、この地を守るのは難しいと言えた。
町には城壁があり、それなりの防御施設を備えてはいるが、とはいえ、大軍勢を迎えるには適していない地であった。
「まあ、逃げやすい場所ではあるな。いよいよヤバイとなれば、海に逃げればいいんだから。まあ、海が封鎖されてしまえば、万事休すとなるけれどな」
一方、マトカルの見解はリノスのそれとは少し違った。
「このアルレという町は、見方によっては絶好の場所と言えなくはないか。王都からこの町まで徒歩で一日。馬を飛ばせは半日で行くことができる。この場所を押さえておいて、海から軍勢を上陸させて王都を急襲すれば、あるいは……」
「おそらくデウスローダもそれを認識しているのでしょうな。このアルレを取られると、喉元に刃を突き付けられたも同然となります。だからこそ、この町を難攻不落の要塞としていないのでしょう」
「なるほど、さすがはクノゲンだな。敢えて防備を手薄にしておいて、いつでも奪還できるようにしておいたのか。例えばこんな感じで、難攻不落の要塞としてしまうと、奪還できなくなってしまうからな」
リノスはそう言うと、地図を指でなぞった。
「ここと、ここに、海から水を引き入れて堀を作ってしまえば、この町を攻めることは難しくなる。欲を言えば、この堀の前に馬出しを作っておけば、さらに防備は固くなる」
「さすがはリノス様。しかし……この地図を見る限りでは、この町は海に対する防御はそれなりに備えているようですが、その他の方角からの攻撃に関しては無頓着なように思えます」
「ホルムの言う通りだ。要はこの国は、ひたすら北方からの攻撃にしか念頭にないということだ。それだけ平和だったのだろう」
リノスはそう言うと、ニコリと笑った。
その夜はリノスもこの野営地に宿泊した。それは、マトカルがこの地で宿泊して、帝都の屋敷には帰らないと言ったためだった。マトカルはリコ様が寂しがると言って、リノスだけでも帰るように勧めたが、彼は笑ってたまにはキャンプもいいものだと言って、自身のテントに入っていった。
翌朝、まだ夜が明けきらぬときに、マトカルは目を覚ました。気がつくと彼女は厚い男の胸に抱かれていた。必死に抵抗を試みるが、男の力は強く、彼女はついに力を抜いた。
「マト、お前は剣を持たせれば天下一だが、暁の攻撃には弱いようだな」
彼女を襲ったのはリノスだった。彼女の口を何か柔らかいものが覆った。マトカルは諦めて目を閉じた。
「……」
ふと目が覚めた。こんな夢を見たのは初めてのことだった。マトカルは外を見てみたが、まだ薄暗い。起床時間には早いようだ。彼女はもう一度、毛布の中に潜り込んだ。だが、彼女は朝になるまで、なかなか寝付くことができなかった。
翌日、アガルタ軍はデウスローダ軍に先導されながら出発した。馬上のリノスは、枕が変わったせいでなかなか寝付かれなかったと言って大きなあくびをしていた。と同時に、マトカルも、睡眠不足のせいか、あくびをかみ殺していた。
◆ ◆ ◆
「アガルタ軍……」
アルレの町では、ネルフフ王国軍を率いるフィレット王女が唇を噛んでいた。彼女にとってアガルタ軍の参戦は予想外のことであった。
彼女は、この大凶作の影響で、デウスローダ軍は二年間、少なくともこの一年間は軍勢を動かすことはできないと考えていた。唯一の懸念は、デウスローダ王の娘がヒーデータに嫁いでいることだったが、ヒーデータ自体も今年は不作であるという情報を得ていたために、援軍はないものと判断していた。それが、あろうことか、世界最強を謳われるアガルタ軍が参戦してきたというのは、ネルフフ王国軍を激しく動揺させた。
「姫様、退くならば、今ですぞ」
アーネリフが口を開く。フィレットはその言葉に対して、応とも否とも返事をしなかった。
「しばらくお待ちください」
突然、一人の男がフィレットたちの前に進み出た。鎧はなく、剣も帯びていない、普通の町人だ。彼は真剣な眼差しでフィレットたちに視線を向けている。
「あなた様にここを去られると、我々は生きていけなくなります」
「……」
「ここは、私にお任せ願えませんか」
「……何をするつもりだ、アワジ殿」
周囲は不気味な沈黙に包まれていた。
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