第九百十四話 だまし討ち?
「デウスローダ・ヒルト・ブレイである。よくぞ参られた!」
彼はそう言ってリノスの手を放すと、大股で先ほどまで座っていた玉座に戻り、ドカリと腰を下ろした。その様子を見てリノスは、なるほど、威厳はそれなりにあるのだなと、心の中で苦笑した。
このデウスローダ国内を移動していて感じたことは、戸惑いだった。それは、自分たちが腫れ物に触るような扱いを受けることだった。
炊き出しをしたどの村や街でも、民衆は最初、それらに手を付けようとはしなかった。それは、自分たちに構ってくれるなという拒絶ではなく、その施しは本当に自分たちに向けられたものなのかという、驚きの感情であったのだが、どこの場所でも一様に民衆はアガルタ軍をぐるりと取り囲むだけで、一切食事に手を付けようとはしなかった。
全員が痩せていた。太っている者は皆無だった。皆、腹をすかしていることは明白だったが、それでも目の前の温かい食事に手を付けようとしない人々の態度は、リノスらを困惑させた。
だが、民衆にも限界はあった。一人が我慢できずに食事に手を付けると、堰を切ったように殺到した。そしてそれらが無くなると、人々は皆、まるで神を見るように膝を折り、平伏した。とある町などは、そこに住むすべての人が列をなし、頭を下げてアガルタ軍を見送ったのだった。どの町や村でも、それに近い状態になる。リノスはそれを見て、この国の惨状を理解すると同時に、為政者の無策ぶりに呆れかえっていたのだった。
その頂点に君臨する男が目の前に座っている。彼はリノスには目もくれず、チラチラとマトカルに視線を向けていた。その眼には明らかな欲情の色が浮かんでいた。
……マトが俺の妻であることは知っているだろうに。ダンナが目の前にいるにもかかわらず、その妻に欲情の眼差しを向けるかね。本当にどうしようもない男なのだな。
リノスは腹の中でそんなことを考えていた。むろん、顔色や態度には出ないように意識していたが、残念なことにその感情は王に伝わってしまったらしい。彼はリノスに視線を向けると、さも、不機嫌そうな表情を浮かべた。
「……で、兵糧は持って参ったのであろうな?」
「ええ、一応」
「一応? 余はヒーデータを通じて、我が軍三万の兵を養えるだけの兵糧を持って来いと命じたはずだ。それなりの兵糧は持って参ったのであろうな。話に聞けば、ここに来る前に民衆どもに施しをしておったようだが、まさか、そのせいで兵糧が少なくなった、などと言うのではあるまいな?」
「ええ。そうならないように、五万の将兵が養えるだけの兵糧を持って来ております。ただ……」
「ただ、何だ?」
「その兵糧を、どのように使うのかを決めるのは、この私ですけれどもね」
「……どういうことだ」
「書状に認めましたが、我が軍はどこの国にも属さない軍勢です。その指揮権はこの私にあり、アガルタ軍はこの私の号令で動きます。そのアガルタ軍の所有する兵糧に関しても、決定権は私にある、ということです」
国王は眉間に皺を寄せたが、そこは傍にいる者が素早く国王の傍に寄り、耳打ちをした。彼は不満そうな表情を崩そうともせず、面相臭そうに頷いた。
「いや、アガルタ王様、ようこそおいでくだされました。私は国軍を預かる総司令官を勤めます、ウジョーという者です。アガルタ王様ならびにアガルタ軍のお越し、我ら一同歓迎申し上げます」
いわゆるスキンヘッドの髪型だが、目力がある。一見して統率力のある雰囲気を感じ取ることができ、なるほど、総司令官の任に適した人物であるとリノスは見た。
「アガルタ王様! 自らのお越し、心から、心から歓迎申し上げます。デウスローダ王国で宰相を務めます、ベタンと申します」
まるで飛び出すようにしてリノスの前に老人が進み出てきた。見るからに人のよさそうな風貌をしており、目には知性を感じさせた。リノスは宰相・ベタンを一目見て、自分と合いそうな人物だと判断した。
「アガルタのリノスです。先に承れば、デウスローダ王国軍はすでに、出発準備を完了していると聞きましたが、実際のところはいかがでしょうか。我が軍は今すぐにでも出発できますが」
「ありがとうございます。出発準備はすでに完了しております。ですが、アガルタ軍も本日到着なされたばかり。本日は十分にご休息いただき、明日、アルレに出陣したく存じます。総司令官殿、それでよろしいな?」
ベタンの問いかけに、ウジョーは大きく頷いた。
「承知しました。それでは我が軍は休ませていただきます。あ、差し支えなければ、デウスローダ王国の地図を貸していただけますか」
「それには及びません。アガルタ軍は、我らの後ろから付いて来ていただければよろしいのです」
「行軍上、地図があるのとないのとでは、速度が全く異なってきますから」
「……承知しました」
「あと、我が軍が休息する場所は、この城の中ですか、外になりますか」
「はい。アガルタ王様以下、司令官の皆様には、迎賓館をお使いいただきます。兵士の皆様には、城外……と申しましても、城壁の中でございますので、安全は保障いたします。この城および迎賓館のすぐ近くに、練兵場がございます。そこをご自由にお使いいただければと存じます」
「わかりました。それでは、今、城壁の外に我が軍が待機しておりますその場所に、貴国に援助するための兵糧を置いてまいりますので、お受け取りの程、お願いいたします」
「……あいや、兵糧は城内に持って入ってもらって構いませぬ。我らの手の者が受け取ります」
総司令官ウジョーはそう言って笑みを浮かべた。だが、宰相の許に控えていた若い男が彼に近づき、何やら耳打ちをした。ウジョーは頷くと、アガルタ王様の御意にままになさって下されと言って一礼した。
「迎賓館の件だが、それは不要だ。我々は兵士と共に過ごすので、お気遣いは無用に願う」
マトカルがよく通る声で口を開く。その言葉に、宰相らは目を白黒させている。
「お……畏れながら、アガルタ王様が地べたでお休みになるなど、それは不敬というもの。どうぞ皆さまは、迎賓館にお越しください。手厚くおもてなしいたします」
宰相はオロオロとしながら口を開いた。だが、マトカルはいささかも怯まなかった。
「この寒空の中、兵たちは野営をするのだ。そんな中、我らだけぬくぬくとした場所で過ごしては、兵たちの士気にかかわる。我らも兵と同じ環境に身をおいてこそ、兵の士気は上がるのだ。上に立つ者たちが厳しい環境に身を置かずして、どうして兵たちに命を懸けろと言えるか」
マトカルの言葉に、そこにいる一同全員が黙り込んだ。
「それでは、我々はこの辺で失礼しましょうか」
リノスはそう言って笑顔を見せた。
◆ ◆ ◆
それから二時間後、デウスローダ王は愛妾の部屋にいて、彼女の体を激しく攻め立てていた。彼は部屋に入るや否や女性に襲い掛かり、それはまさに獣のごとき振る舞いと言えた。
王は怒っていた。これほどの怒りを覚えたのはいつ以来だろうか。あの、アガルタの連中全員が気に入らなかった。特にあの王とその妻には、殺意すら覚えていた。
……何にも知らぬ馬鹿どもめが! この儂を誰だと思っているのだ!
女性を攻めながら彼は腹の中でそう呟く。一番腹立たしいのが、アガルタが寄越した兵糧は、一万人分のものしかなかったことだ。
王は確かに三万の兵が養えるだけの兵糧を持って来いと命じた。そしてアガルタは五万人分の兵糧を持ってきたと答えた。彼はそれで十分にデウスローダ軍を養えると判断した。そして、余った分は民に下げ渡してもよいとさえ考えていた。
だが、アガルタ軍の話には続きがあった。兵糧は持ってきただけで、その全てが軍を支援するためのものではないと言ってのけたのだ。さらには、その兵糧の分配はアガルタ王に決定権があり、その決定に従ったまでだと言ってきたのだ。
これではだまし討ちではないか! 王の怒りは収まらなかった。その怒りすべてをこの愛妾にぶつけようと考えていた。だが、気づけば王の逸物は、いつのまにか小さくしぼんでいた……。