第九百十三話 いざ、デウスローダへ
デウスローダ王国国王、デウスローダ・ヒルト・ブレイは、顎髭を撫でながらヒーデータより送られてきた国書に目を通していた。
すでに老境に達しているため、王のよく整えられた髭も髪の毛も、白いものが目立ってはいるが、鋭い眼光は若い頃のままであり、見るからに壮健そうな様子であると言えた。事実、この王は今のところ病気らしい病気は患ったことはなく、それどころか、自分の孫ほども年の離れた若い女性を傍に置き、昼となく夜となく愛撫していた。彼には一つの持論があった。若い女性を傍に置いておけば、若さを保てる――それは昔からこの国で言い伝えられてきた事柄である――と、本気で考えていた。
つい先ほどまで、今年二十歳になる愛妾との濃厚な時間を過ごしてきたばかりだ。侍従に呼ばれなければ、まだまだ時間を過ごせていた自信がある。王はふと、先ほどまでの逢瀬を脳裏に描いていた。
「おお……そなたのお蔭で余はまだ雄々しく戦える。アルレのネルフフ軍は余が一撃のもとに蹴散らしてくれる!」
まるで少女のような華奢な体を激しく攻めながら、弾力のある肌に自分の指を食いこませながら、何かを我慢するような艶めかしい愛妾の声を聞いている時間が、王は何よりも好きだった。
「国王様、いかがなさいますか」
甘美な想像を邪魔された王は、少し不機嫌そうな表情を浮かべる。そして、さも面倒臭そうに、よきに計らえと吐き捨てるように呟いた。
予想もしていない返答だった。これまで通り、ヒーデータは唯々諾々と兵糧を支援してくるはずだった。だが、今回はどこをどうしたものか、人道に基づいて、などと勿体の付けた文言を書き並べ、挙句の果てには、対価まで要求してきた。このようなことは、これまでにはなかったことだ。
……ここはひとつ、ニーシャに書状を遣わし、夫の手綱をしっかりと締めろとどやしつけてやらねばならない。
そんなことを考えるが、そこは可愛い娘である。すぐに怒りが心配に変わった。
……これまでヒーデータに対する要求はすべて、何の問題もなく通ってきた。だが、今回は違う。もしや、婿殿の心がニーシャから離れてしまったのではないのか。娘は帝国内で孤立してしまっているのではないか。そんなことが頭の中に浮かんできた。
王は再び国書を手に取ると、じっと書かれている文字を見た。不遜とも取れる内容だ。何より、アガルタ軍はデウスローダ軍の指揮下には入らず、アガルタの裁量によって行動するという内容が実に癪に障る。最初、アガルタ軍が援軍に赴くという表記を見たときは、王は狂喜した。あの、世界最強を謳われるアガルタ軍を、自分の号令一下、動かすことができるのだ。だが、実際は違った。王の目論見は一瞬で潰えた。
「まあ、よいわ。我が軍の兵力は三万。アガルタはわずか五千。三万の軍勢の中に飲み込んでしまえば、アガルタ軍の指揮を奪うなど造作もないことだ」
王はそう言って起き上がると、手を鳴らして再び侍従を呼んだ。
「ディレーク! ディレーク! アガルタ軍がいつ我が国に到着するのかをよく調べておけ! ああ、アガルタ軍に書状を遣わし、早く来いと催促をかけよ。我が国は不作のため飢饉が起こっている。アガルタの持って参る兵糧が頼りだと言ってやるのだ」
そう言って王は、持っていた書状をポイとテーブルの上に放り投げた。
◆ ◆ ◆
その書状をリノスは停泊地である船の中で受け取った。
「陛下からの話である程度は知っていたが、この王は、俺の予想をはるかに超えるド厚かましさを備えた人物らしい。己の国の人々が飢えて困っているのだ。備蓄した兵糧をすべて開放して助けてやるのが筋というものだが……」
書状には、王が喋ったままの内容が記載されていた。むろん文語体に改められてはいるが、その内容は高圧的で、まるで使い走りのような内容であった。
「……よくこれで王という座に留まっていられるな」
マトカルが書状に目を通しながら、呆れたような表情で口を開く。そんな彼女をクノゲンは苦笑いをしながら眺めている。
「まあ、豊作のときは気前よく税を下げるなどの善政を敷いたこともありましたからね。そうした点がこの方を王の座に止め置いているのでしょう。しかし、民衆の怒りもそろそろ限界でしょうね」
ホルムがクノゲンと同じような表情を浮かべながら頷く。
「いっそのこと、怒り狂った民衆に倒されちゃえばいいんじゃないか、この王」
「まあ、リノス様の言われる通りなのですが、今のデウスローダの民衆には、立ち上がる気力もないことでしょう」
「そうなってくると、侵攻されたアルレだっけ? その城の人々がひどい扱いを受けていないことを願うばかりだよ」
リノスは机に広げられている地図に視線を向ける。
「ここからデウスローダまで、最短距離で進むと、二日後には到着するか……。やっぱり、民衆のことを考えると、急いだほうがいいかな」
実際、アガルタ軍の行軍速度は驚異的であると言えた。彼らは食料を満載した荷駄隊を引き連れると同時に、それなりの土木工事ができる技術を持った者も従軍させていた。彼らは、瞬く間に道路を平らにし、落ちそうな橋を修理し、または、新たにかけ直したりしながら進んだ。その作業速度は迅速で無駄がなく、軍勢が小休止している間には完了させてしまう程であった。こうしたことは、リノスの魔法を使えばできなくはないのだが、マトカルはこれからの戦いを見据えて、できるだけ彼のスキルを使わずに戦いを進められるよう準備をしてきたのだった。
アガルタ軍はできるだけ海路を利用した。言わば逆風ともいうべき北風が吹き荒れていたが、兵士たちは操舵術もよく訓練されていた。彼らは号令一下、一糸乱れぬ動きで櫂を漕ぎ、強い北風をもろともせずに海を進んだのだった。
実際、兵士たちは交代を繰り返しながら、ほぼ一昼夜にわたって舟を漕ぎ続けた。そして、デウスローダ近くで錨を下ろして一日休息し、翌朝、アガルタ軍はデウスローダ王国に上陸したのだった。
予想していたよりも早く到着したアガルタ軍に、デウスローダ王は驚きつつも、喜びを隠さなかった。しかし彼らは、上陸してから王都まで、まるでナメクジが這うような行軍速度で進んだ。上陸した場所から王都まで、馬で飛ばせば僅か三時間で到着するところ、アガルタ軍は丸一日をかけて王都までやって来た。彼らは行く先々で炊き出しを行うと同時に、せっかく持ってきた兵糧を民衆に惜しげもなくくれてやっていた。この報を聞いたブレイ王は激怒した。
彼は家来に命じてすぐさま王都に急ぐよう使者を立てた。だが、アガルタ軍の速度は一向に上がらず、結局彼らが到着したのは、翌日の昼前だった。
王は激怒した。だが、側近たちは必死になって彼を宥めた。本来は王国がやらねばならぬことをアガルタがやっているのだ。デウスローダ側に文句を言う資格がないのは、自明の理であった。
ようやく王は怒りを鎮め、アガルタ軍の者たちとの謁見を許可した。しかし、現れた者たちを見て、王とその周囲の者は驚愕した。何と、アガルタ王自身がこの軍勢を率いており、司令官には、その愛妾たるマトカルを筆頭に、クノゲン、ホルムといった、歴戦の者たちが顔を揃えていた。
「初めてお目にかかります。アガルタ王国国王、バーサーム・ダーケ・リノスです」
王は玉座から降り、リノスの許まで歩いて行って、力強くその手を握った。彼はリノスを一目見て、単なる優男であり、この青年を懐柔することは簡単であると判断した。
しかし彼は近い将来に、その判断が間違っていたことを知ることになるのだった……。