第九百十二話 トリプルファイブ
「シディーはどう思う?」
俺の言葉に彼女は反応を示さず、じっと何かを考え続けている。こういうときは、彼女の邪魔をしてはいけないことを俺は経験上知っている。
ややあって彼女はゆっくりと俺に向き直ると、確信を持った表情で口を開いた。
「援軍を出した方がいいと思います。これはいつもの……」
「直感か」
「はい」
「シディーの直感は絶対だ。じゃあそうしよう」
俺の言葉にシディーは満足そうな笑みを浮かべる。
「マト、出兵準備は継続だ。いつでも出陣できるように準備しておいてくれ。……というより、準備完了していたっけな?」
「ああ。今すぐ出陣せよと命令されれば、出陣できる態勢を整えている。五千の規模であれば、私一人で十分だ」
「いいえ、マト。リノス様、クノゲン、ホルムの三人は連れて行くべきだわ」
「……と、シディーの直感が言っているようだ」
「……正直、そこまでする必要はないと思うが……。いや、シディー殿の直感に従がおう」
マトカルはそう言うと、ニコリと笑みを浮かべると、皆を見廻しながら口を開いた。
「リノス様、クノゲン、ホルムがいてくれれば、負ける要素は一切なくなった。死の危険性のある現場に赴くことで兵の練度も上がると考えていたが、その結果、兵士を失っては何にもならない。シディー殿、助言、感謝する」
マトカルの振る舞いは実に爽やかなものだった。リノスはその彼女を見ながら、美しい振る舞いだと感じていた。
「さて、あとは出兵するための口実が必要になるな」
そう言って俺はリコに視線を向ける。彼女は俺に目を合わせず、俯いたままだ。
「このままはいそうですか、と出兵すれば、あのニーシャ妃の注文通りの展開となる。少なくとも、彼女の実家に対する顔は立つことだろう。ただ、そうなると俺たちはナメられて、最悪の場合、デウスローダ軍の指揮下に置かれて、無理難題を吹っかけられる可能性がある。その点を排除して、出かけたいというのが俺の考えだが、リコはどう思う?」
俺の問いかけにリコはしばらく沈黙していたが、やがて、スッと顔を上げると、真剣な眼差しで俺を見つめた。
「一旦断るのがよいと思いますわ」
「断る、か」
「はい。そうしておいて、デウスローダの民が飢えている点を懸念している。そのために、人道的に支援するために、食料を届けると言えばよいと思いますわ」
「なるほどな。食料だけをお届けしますか。それならば、相手が何を言って来ようと突っぱねられるな。だって、俺たちは食料をお届けに上がっただけなんだから」
そう言って俺は笑い声を上げるが、誰も笑っていない。……盛大にスベってしまった。ここは空気を変えるべく、オホンと咳払いをしながら、話を続ける。
「ああ、うん、ええと……。じゃあ、書状の作成はリコにお願いするとしよう。ああ、そうだ。できたらその中に、アガルタ軍の撤退に関しては、アガルタ軍が独自に判断できるものとする、みたいな文言を入れ込んでくれると、うれしいな」
「承知しましたわ。ついでに、報酬として、メイが必要としているガルマシオンホンを大量に頂くように文言を追加しますわ。メイ、あとで、どの程度必要なのか教えてちょうだい。遠慮することはありませんわ。欲しいだけの量を言って下されば、あとはこちらで何とかしますわ」
「ハイ……ありがとうございます」
「ガルマシオンホンは私たちドワーフ工房でも使うことがあります」
「じゃあメイとシディーで話をして、どのくらい必要なのか、明日の朝にでも教えてくださいな」
「ありがとうございます」
「さて、話は済んだ。みんな夜遅くまでご苦労だった」
そう言って皆の顔に視線を向ける。すると、ソレイユが一人、コクリコクリと眠ってしまっていた。
「……まあ、今日の会議はソレイユにはあまり関係のない話だったな」
そう言って俺は彼女を抱きかかえて、寝所に運んでいった。
◆ ◆ ◆
正妃ニーシャの許に、アガルタからの国書が届いたのは、それから二日後のことだった。彼女はその内容を見て絶句した。
国書は二通あった。一通目は、ニーシャの送った書状に対する返答で、デウスローダ王国への援軍は断るという、ごく短い内容のものだった。そしてもう一通は、皇帝ヒート宛てに送られたもので、そこには、人情として民が飢えるのを座視するのは忍びないため、食糧支援を行うと書かれていた。さらには、その支援は無償ではなく、国家間での取引であることが記され、その報酬として、ガルマシオンホンを向こう五年間、年間五トンずつアガルタに供給することが条件であるとされていた。この条件が受け入れられるのであれば、すぐにでもアガルタは軍勢を派遣し、五万人分の食糧支援を行うというのが、その国書の主な内容であった。
それを見たニーシャは思わず舌打ちをした。ガルマシオンホンは貴重な鉱石だ。デウスローダ王国の主な収入源の一つだ。それを年間五トンを五年間、無料で寄こせと言う。その上、ご丁寧にアガルタから五万人分の食糧支援についての内容は、アガルタが決めると書かれている。デウスローダ王国の足元をみた、汚いやり口だった。
だが、その一方で、国書の字は実に見事で美しく、彼女はこれまでの人生の中で、これほど美しい字を見たことはなかった。先の会見から二日後にこれが到着したところを見ると、この国書の字はあの、リコレットのものに相違なく、アガルタ王リノスのサインが記されているものの、この内容はあの、リコレットが決めたと考えてよかった。あの奴隷上がりの平民王が、このような策を弄すことができるとは考えられなかった。それは、この五という数字が並べられている点から見ても、やはり、あのアガルタという国は、あのリコレットが裏で操っているのだと、ニーシャは確信を持った。
正直に言うとそれは、ニーシャがここ、ヒーデータでやりたかったことであった。皇帝たる夫を自由自在に操り、己は責任の及ぶ範囲から遠くの位置にいる……。そのチャンスはいくらでもあったが、彼女はその全てをモノにできないでいた。国書を破れんばかりの力を込めて握り締めながら、彼女はあのとき、こうしておけばよかったと後悔の念が走馬灯のように頭の中を駆け巡っていた。
「恐れ入ります王妃様。その国書をあまり傷つけぬようにお願い申し上げます」
国書を持ってきた侍従が恭しく一礼する。彼女は不機嫌そうな表情を隠そうともせずに、その書状を彼に渡した。侍従は皺ができてしまった部分を丁寧に伸ばしている。
実家は、デウスローダはこの条件を受け入れるだろう。だが、このままの内容を送るわけにはいかない。彼女は侍従に向けて口を開いた。
「アガルタの考えはよくわかりました。奴隷上がりの国王と、厄介払いをされた皇女の考えそうな、下品な内容ですこと。デウスローダの父上が何と申すかはわかりませんが、取り敢えず、父に書状を書いてみますわ」
「ああ、それには及びません」
「どういうことでしょうか?」
「陛下のご命令で、この国書をそのままデウスローダに送ることになっておりますので」
「そっ、それをそのまま!? 正気ですか! 陛下は気が狂れたのではありませんか!」
「お言葉にお気をつけてください、王妃様。今のお言葉は、聞かなかったことにいたします」
「そっ、そのような……。陛下宛ての国書を手直しもせずに、他国に送るなど、古今東西、聞いたことがありませんわっ!」
「おや、お気づきになりませんでしたか。この国書には宛名が書かれてございません。そのため、陛下は宛名をデウスローダ国王殿と追加し、さらに文末に陛下のサインを記して送れば、アガルタ、ヒーデータの連名での国書となると申されております」
「そ……そのような皺の入った国書を、送るというのですか!」
「ああ、ですので、国書を傷つけぬようにとお願い申し上げました。皺は……焼けた鉄を押し付ければ、すぐに元通りになると存じます。ああ、こうしてはいられません、早くこの皺を何とかしなければ……」
侍従はそう言って足早に部屋を後にした。ニーシャは力なくその場に崩れ落ちた。