第九百十一話 それもアリだな
「はぁぁぁ。疲れたなぁ……」
帝都の屋敷に戻ってきた瞬間に緊張の糸が解けてしまい、思わずそんな言葉が口をついて出た。チラリとリコの様子も見たが、彼女も何となく疲れた様子を見せていた。
そんな俺たちの雰囲気を吹き飛ばすかのように、キッチンからフェリスの、もうすぐ夕食ですから、手を洗って待っていてくださいとの声で、俺はリコを促してその場を後にする。
それにしても、目の前であんな夫婦喧嘩を見せられるとは思わなかった。俺もリコもどうしていいのかがわからず、ただ、成り行きを見守る他はなかったのだが、まさか陛下の口から離縁するという言葉が出るとは思わなかった。
とにかく疲れた。手を洗ったがダイニングに戻る気がせずに、俺はリコに部屋で休んで来ると言って離れに向かう。そのリコも、私も行きますわと言って付いてきた。彼女にしてみれば、実の兄があんな風に感情を露わにした姿を見てしまい、俺以上に疲れたのだろう。少し顔が青白い。
部屋に入ると、どかりとベッドに大の字になって寝ころぶ。リコは俺の傍に腰を下ろして、大きなため息をついた。
「どうなるんだろうね、あのお二人は」
「……」
俺の問いかけにリコは何も答えなかった。正妃ニーシャは控えていた兵士たちに無理やりに謁見の間を退室させられていた。謁見の間を出て行く直前、「父上のご恩を忘れるのですか、裏切り者!」というセリフが、今も耳に残っている。
俺にはさっぱりわからない。ヒーデータ帝国の正妃ともあろう方が、あんなに高圧的な書状を送りつけてきたことだけでも驚きだが、俺たちを目の前にして、あれだけ尊大な振る舞いをし、さらには夫たる陛下を罵倒したのだ。国同士の代表者が会しての会談の場で、あのようなことをしでかしたのは、俺の記憶の中では初めてのことだ。親戚の集まりやないっちゅーねん……。
「後宮に、長くいると、そうなってしまうのですわ……」
リコが寂しそうにつぶやく。後宮で、しかも皇帝の正妃となると、その行動はかなり制限される。自分の意思で宮城はおろか、後宮から出ることも叶わない。そうした閉鎖された環境の中で家来たちの耳障りのよい情報だけを得ていれば、自然とあのような感じになるのだと彼女は説明してくれた。
「それに、あのお方は、兄上との仲もよいとは言えませんから……」
確かに、陛下にはタウンゼットという愛妾がいて、二人の間には皇太子・アローズをはじめとして、三人の子宝に恵まれている。彼の側室はタウンゼット一人であり、言わば、彼の愛情は彼女が独り占めしている状態だ。
美しさ、という点では、正妃・ニーシャに軍配が上がる。大国の姫らしく、抜群のスタイルを持ち、研ぎ澄まされた美しさが彼女に備わっている。対して、タウンゼットは、人のよさそうな顔立ちではあるが、辺りを払うような気品は備えてはいなかった。
ただ、己の言いたいことをズケズケと言い、己の話を中心にするニーシャに対し、聞き上手で、その上細かいところに気がつくタウンゼットと比較すれば、ヒートがどちらの女性と一緒にいたいと思うのかは、自明の理であると言えた。
皇太子時代のヒートの許に嫁してきたニーシャは、当時、情緒不安定で、いつも父の顔色を窺って過ごしていた彼を、支えるどころか軽蔑していた。嫁ぐ先を間違えた、私は騙されたのだと言ってのける有様だった。
そんな彼女は、彼が帝位に就くと一転して、猫なで声を使って接近しようと試みた。真偽のほどは定かではないが、呼ばれてもいない彼の寝所に、裸同然の格好で押しかけたりもしたらしい。よしんばそれが作り話であったとしても、これまでの仕打ちを考えれば、そんな女性に心を許すほど、彼はお人よしではなかった。
とはいえヒートも、国同士のつながりには重きを置いていたため、ニーシャを正妃として据え、重要な儀式には彼女を傍に置いて、その立場を尊重してきた。にもかかわらず、先ほどの振る舞いだ。リコは兄の心中を察すると、同情の念に堪えなかった。
リコは正妃・ニーシャの気持ちが手にとるようにわかった。彼女はただ、ヒーデータの家来たちと実家のデウスローダに己の存在を見せつけたいだけなのだ。アガルタという国を動かすことで、自分にはそれだけの力があるのだということを誇示したいだけだ。ただ、その手法は悪手も悪手。どうしてそのようなことをしでかしたのか、リコ自身も理解に苦しむことだった。
……きっと、側近の者たちに唆されたのですわね。
彼女は心の中でそう呟くと、大きく息を吐き出した。
そのとき、部屋の扉がノックされた。てっきりフェリスが食事ができたと言いにきたものと思っていた二人は、入室してきた者の顔を見て驚いた。それはマトカルだった。
「ちょっと、いいだろうか」
「どうした、マト」
「いや、デウスローダに援軍を送る話だが、あれはどうなったのか、結論を聞きたくてな」
「ああ。あの話なら、陛下がその必要はないと言ってくれたよ。すまなかったなマト、準備だけをさせてしまう形になった」
俺の言葉にマトカルはさも残念、といった表情を浮かべた。
「そうか……。兵士たちのよい訓練になると思ったのだがな」
「う~ん。話によると、どうやら俺たちには兵糧を運ぶ荷駄隊の役目を期待していたみたいなんだ。戦闘には参加させる予定はないとのことだった。だから、五千くらいの規模でよいという話だったんだが、陛下が取りやめにされたよ」
「そうか。それならば大いに好都合だった。戦場の中、荷駄隊を守りながら移動するというのは、なかなかできるものではない。しかも五千程度なら、私一人でも十分に対処できたのだが……」
「まあ、マトは本当に戦いが好きですこと」
「軍の指揮を執っていると、兵士たちの訓練の質が落ちないように考えてしまうのだ。気に障ったら、すまない」
「いえ、そんなことはありませんわ」
「そうか、訓練か……それは、アリかもしれないな」
「リノス……」
リコは驚いた表情を浮かべながら俺を見ている。対して、マトカルは、ニコリと笑みを浮かべながら大きく頷いている。
先ほどから、デウスローダ王国と聞いて、どこかで聞いたことのある国だなと思っていたのだが、今思い出した。確か、メイが欲しがっていた鉱石が採れる国だ。確か、ガルマシオンホンとか何とかいった、難しい名前のものだ。それを用いれば、血流を見ることができるとかできないとか言っていた気がする。まあ、その話自体は結構前のことであり、デウスローダとは国交を樹立していないので、取引となるとかなりの時間がかかってしまう。メイ自身は結構急ぎで必要だったので、そのときは別のルートからそれを手に入れたはずだ。今でもそれを必要としているのかはわからないので、夜一度、皆で集まって話をしようということで、その場はお開きとなった。
そして夜、子供たちが寝静まった頃、ダイニングに皆が集まり、会議が開かれることになった。そこには、ルアラやフェリスも同席している。
「……ということなんだが、どうだろうか」
俺の問いかけに、フェリスが口を開く。
「小麦とかコメとかの指定がなく、好きなものを支援するというのであれば問題ないです。アガルタの食糧庫には正直、野菜類が余ってきている状態です。それらを放出するのは問題ありません」
「メイはどうだ?」
「正直言いまして、ガルマシオンホンは欲しい鉱石です。国交が樹立されて、それが容易に手に入るようであれば、とても嬉しいです」
「そうか……」
俺は腕を組みながら頷く。ふと、シディーに視線を向ける、彼女は人差し指を顎の下に当てながら何かを考えていた。これは……あの、名探偵の素振りだ……。