第九百八話 不凍港
まるで嵐のような北風が吹き荒れていた。時おり、ゴウゴウと唸るような音を上げて、まるで叩きつけるような風が吹き荒れる。そんな荒天の中、城のバルコニーには一人の女性の姿があった。
女性といっても、ドレスなどは着用せず、まるで、軍人のような衣装を身に付けていた。そんな彼女は、夜、暴風と称して差し支えない強風に、自らの身を晒し続けていた。
「姫様……。どうか、お部屋にお入りくださいませ」
女性の後ろから力のない男の声が聞こえた。頭は禿げあがり、側頭部に残った白髪を伸ばして、それを後ろで束ねている。小柄で小太りなその体躯からは一見して、風采の上がらぬ男の印象を受ける。
「爺……」
「はっ」
「この風はいつまで続くと思う?」
女性の質問に、男は何を言っているのだと言いたげな表情を浮かべる。彼は小さなため息をつくと、一気にまくしたてるように口を開いた。
「恐らく三日は続きましょう。そして、この風が止みますと、いよいよ冬が到来いたします」
「申し上げます」
突然女性の声が聞こえた。振り返るとそこには、申し訳なさそうな表情浮かべた侍女が立っていた。
「アーネリフ様がお見えになりました。火急のご用件とのことでございます」
「アーネリフ? こんな夜更けにか! 姫様はもうお休みになるところじゃ。明日の朝に出直せと……」
「構わん。通せ」
「姫様!」
老人は眼を見開いて驚いたが、女性はその視線には反応を示さず、侍女に目でここに連れてこいと促した。
「夜分にもかかわらず……」
ややあって初老の男性が入室してきた。いかにも貴族然とした佇まいで、口ひげを生やしている。その男の傍らには、全身ずぶぬれの若い男が立っていた。
「堅苦しい挨拶はいい。用件は」
「はい。この者がたった今、アルレより一報を持って参りました」
アーネリフは男に向けて小さく顎をしゃくる。男はスッと一礼すると、一気に口を開いた。
「アルレの町長、アワジ殿が助けを求めておられます。ネルフフ王国が支援をしていただけるのであれば、我らはもろ手を挙げて歓迎しますとのことです」
女性は大きく頷くと、隣に控えていた老人に視線を向けた。
「爺、夜更かしも、たまにはいいことがあるだろう?」
老人は何も言わず、苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべた。女性は再びアーネリフに視線を戻した。
「兵士たちは?」
「いつでも準備はできております」
「ならば今すぐ出陣する」
「ひっ、姫様! 今、何と!?」
「出陣すると言った」
「こっ、このような嵐の中を……。きっ、危険でございます! それに国王様のご裁可も……」
「そんなことは百も承知だ。だが、このような嵐の中、敵もまさか攻撃されるとは思ってもおるまい。それにこの北風だ。上手くやれば、夜が明ける前にアルレに到着することができるだろう」
「そのようなこと! まずはお父上様にご裁可を……」
「ああ、父上には爺から上手く言っておいてくれ」
「姫様、なりませんぞ! 姫様! 姫様ぁ!」
老人は激高したが、女性はそんなことはいささかも意に介さず、傍らにあった剣を取ると、足早に部屋を後にしようとした。男は腕ずくでもこの女性を止めようと掴みかかったが、彼女はひらりとそれを躱す。男は勢い余ってその場に倒れ伏した。
すぐに起き上がったが、女性たちの姿はそこにはなかった。男は這うようにして廊下に出たが、やはりそこにも女性たちの姿はなかった。
「誰ぞ、姫様を、姫様を止めてくれぃ! 姫様を! 姫様を!」
老人のあまりの絶叫に侍女たちは絶句し、動けないでいた。そんな中、城内にはしばらくの間、老人の大声が響き渡った。
◆ ◆ ◆
常識では考えられないことであった。このような嵐の中、海に船を出すのは自殺行為であると言えた。だが、天はこの女性に味方した。強い北風に乗った彼女らの軍船は、最短距離でアルレの町に辿り着いた。
実際、アルレを守っていた守備兵は、海に現れた軍勢を見て驚愕した。町と港を守る司令官は、当初は抵抗する構えを見せていたが、海に展開している軍勢が五千を超えると聞いて戦意を喪失した。このアルレの守備兵はわずか五百に過ぎず、衆寡敵せずと判断したのだった。
司令官は敵が上陸してくる前に全ての城門を開くよう命令すると、自らは馬に乗り、我先へと町を後にしていった。
司令官の男に悲壮感はなかった。それは彼だけでなく、アルレを守っていた兵士たちも同様だった。すぐに敵は引き上げていくだろうというのが、皆の一致した考え方だった。
「まさかこのような風雨の中、軍を動かすとは……。そのような非常識なことをやってのけるのは、あのじゃじゃ馬しかあるまい。このままでは済まさぬぞ。生け捕りにして、儂があの体を嬲り倒してやる!」
司令官はそう言いながら馬に鞭を当てた。
◆ ◆ ◆
アルレを襲ったのは、ネルフフ王国の王女・フィレットが率いた軍勢であった。この軍事行動について、周辺国は特に驚きはしなかった。
ネルフフ王国は北方に位置し、冬の間は雪と氷に閉ざされた世界となる。厳冬期にはマイナス四十度に達する日も珍しくなく、寒さはこの国に住まう者にとっては最大の障壁と言えた。そのため町や村では冬季の間は火を絶やすことなく燃やし続ける。そうしないと、水はもちろんのこと、すべてものが凍り付いてしまい、命を落とすことにつながるからだ。
この寒さは、国の発展にも重大な影響を与えている。その最たるものが、港を凍り付かせてしまうことだった。従って冬の間は、この国では船を動かすことができないために、軍勢を動かすどころか、食料を購入することさえできなくなるのだ。
この問題はネルフフ王国にとって建国以来頭を悩ませてきた。歴代の王は、他国に侵略を繰り返し、不凍港の確保に注力したが、いずれもうまくいかなかった。その理由は冬が来ると海が閉ざされてしまうため援軍を送ることができず、また、食料などの支援もできないために、必ずと言っていいほど、冬の間に奪還されてしまうのだった。
だが、不凍港の確保はこの国の生命線であり、それなくして国の発展はないと言えた。だが、王位を継いだネルフフ十六世は生来病弱で覇気に乏しく、国としての現状を維持するのが精いっぱいであった。家来たちは次代の王に期待をかけていたが、彼は姫一人しか授かることができなかった。
ゆくゆくは他国から優秀な王を婿に迎えて、この国を発展させるのだ……。家来たちの多くがそんなことを考えていたが、姫は長ずるにしたがって、天から授かった才能を開花させ始めた。
フィレットと名付けられたその姫は、抜群の記憶力と運動能力を備えていた。生来文字を読むのを好んだこの女性は、城の書庫に籠り、興味のある本を片っ端から読破していった。同時に、運動能力にも優れていた彼女は剣などの武芸にも豊かな才能を見せていた。だが、所詮は女性……。王をはじめとした周囲の者たちは、この姫が男子であったならばと無念の思いを露わにした。
しかし、姫の行動はそれだけにとどまらなかった。カリスマ性をも有していた彼女は、いつしか軍務に関わるようになり、あれよあれよという間に、兵士たちの心を掴んでいった。そして気がつけば、彼女は軍の総司令官に収まっていたのである。
軍の実権を握ったフィレット姫は、すぐに軍事行動を起こすような愚かなことはしなかった。彼女は数年をかけて食糧を備蓄して機会を伺っていた。そして今年、周辺国は不作の年となった。
最も深刻であったのが、アルレの町が所属するデウスローダ王国であった。国内では飢饉が発生し、アルレの町もそれに近い状態にあった。しかし王国は支援を行わず、国内には餓死者が出る有様となっていた。フィレットはそこに目を付けた。彼女はアルレの町に対して、食糧支援を行うと約束したのだった。
結果的にアルレは無血開城することができ、ネルフフ王国は悲願であった不凍港を手に入れることに成功した。だが、大きな問題が一つあった。この港を冬の間どのように維持していくのか、ということではない。このデウスローダ王国国王の娘が、ヒーデータ帝国皇帝の正妃として嫁いでいたのだ。
アルレの町では今、雄々しい勝鬨の声と豊富な食糧を与えられた民衆の喜びの声で満ちていた。だがその一方で、軍を率いているフィレットの目は、遠い未来を見据えていた……。
あけましておめでとうございます。旧年中は大変お世話になりました。今年もどうぞよろしく、ご贔屓お引き立てを賜りますよう偏に、お願い申し上げます。
片岡直太郎 拝