第九百四話 今なら殺せる?
「慌てるな、落ち着け」
マトカルはそう言って兵士たちを静める。彼女は兵士たちがまだ不安そうな表情を浮かべているのを見て、さらに言葉を続ける。
「都はリノス様の結界が張られている。問題はない。ただ、万に一つということもある。魔物たちが都に入り込まないように各自、見張りを怠るな」
確かにルノアの森から飛び出した魔物たちは、城壁の前で結界に阻まれて動けなくなっていた。そのため、ある者は移動できる場所を探して動き回り、ある者は魔物の上に覆いかぶさるようにして上に上に進もうとしている。察するところ、この魔物は真っすぐにしか進むことができないのかもしれない。
リノスの結界があることに気づいた兵士たちは、一様に安堵の表情を浮かべる。彼らはすぐさま城壁の上に上り、それぞれの持ち場に散っていく。
その様子を見たマトカルは、再びルノアの森に視線を戻した。
◆ ◆ ◆
ルノアの森に異変があったことは、すぐさまリノスの許にも伝えられた。彼は結界を強化して魔物が入って来られないように盤石の態勢を整えると共に、急使を派遣して森の異変をアガルタの各地に知らせた。とりわけ、国内を移動している冒険者や商人たちに避難するように呼びかけさせた。そしてリノス自身は正門に上り、ルノアの森全体に結界を張るべく目を閉じた。
「何ですか、これ」
話を聞いたのだろう。仕事の手を止めてフェリス、ルアラ、シャリオの三人がリノスの許にやって来た。眼下には魔物たちがバラバラと正門前を通り過ぎているのが見えた。
「これ……マズくないですか? 魔物たちが国内で暴れてしまうことになるんじゃ……」
ルアラが呟く。そのとき、シャリオがフワリと空に浮き上がった。
「ちょっと、何をする気なのよ」
フェリスが驚いた表情でシャリオに話しかける。彼女は無表情のまま目だけをフェリスに向けて呟く。
「私が出よう」
「出る? 何をする気?」
「私が人化を解けば、あの魔物たちは引き返すだろう」
「やめなさいよ! そんなことをしたらさらに魔物たちが混乱するでしょうが」
「では、魔物たちを倒していけばいい」
「アンタねぇ」
「……よし、成功だ」
そのときリノスの声がした。彼は大きく息を吐き出すと、がっくりと片膝をついた。冬であるにもかかわらず、彼は汗をびっしょりかいていた。これは短期間に大きな魔力を消耗したときに起こる反応だ。膨大な魔力を内包する彼にとって、こうした様子を見せるのは珍しいことと言えた。
「すまないが誰か、ポーションを取って来てくれないか」
手で額の汗をぬぐいながら彼は呟く。すぐさまルアラがポーションを採りに走った。フェリスが大丈夫ですか、と心配そうな表情を浮かべながらリノスの背中を撫でる。
「……ルノアの森を中心に、ちょっと大きめな結界を張った。恐らく、森から飛び出した魔物は結界の中に封じ込めることができたはずだ。ただ……この結界を維持するのに、かなりの魔力を使うな。これをずっと続けるとなると、ヤバい状況になるな」
「ルノアの森からこれだけの魔物が出てくるということは、ジュカ山からドラゴンが降りてきた可能性が高いです。でも……。ジュカ山に住むドラゴンはみだりにルノアの森に降りないことを約束しているはずですが……。族長様にお尋ねしに行きたいですが、これだけ森が混乱していると……」
「ああ。フェリスがやられるとは思わないけれど、今は森に行かない方がいい」
「今なら、お前を殺せるな」
不意にシャリオが口を開く。思ってもみない言葉に、フェリスはギョッとした表情を浮かべる。
「アンタ、今、何て?」
「この男は今、魔力を使いすぎて枯渇寸前の状態にある。私が襲えば……」
「何を言っているのよ! 今、そんなことを言う状況? 外を見て見なさいよ! 魔物が溢れているでしょうが! そんな時にリノス様の命を奪う奪わないの話なんてしている場合じゃないでしょ! バカじゃないの、アンタ!」
フェリスの言葉など聞いていないかのように、シャリオは空中に浮きながら冷たい目でリノスを見ている。
「……俺を、殺すか?」
「……」
「シャリオ、お前とは、仲良くしていきたいと思っているんだがな。それに、俺がいなくなると、リコたちが悲しむだろうし、子供たちも寂しがるだろうな」
「……やめておこう」
彼女はそう言うと、ゆっくり地上に降りてきた。そして、リノスたちに背中を向けると、誰に言うともなく小さな声で呟いた。
「ふっ、冗談だ」
「じ……冗談? アンタねぇ!」
「私がお前を襲ったところで、結界を解除して戦われてしまったら、おそらく私はお前に勝てないだろう。それに……フェリスと共に戦われたら、勝てない」
「ウソつけ」
リノスは意地悪そうな笑みを浮かべながら口を開く。
「一瞬、勝てると思っただろう? 今、お前が全力で俺を襲えば、俺にかなりのダメージを与えることができる。ただし、それが当たらなかった場合、お前は死ぬことになる。一か八かの勝負になるけれど、俺を倒せる可能性はあった」
「別に私は、お前に殺されるのを恐れているわけではない。それに、今のお前なら倒せる自信はある。私自身もダメージを負うだろうが、お前とフェリスの二人であれば、倒すことは十分に可能だ」
彼女はそう言うと、クルリと踵を返してリノスたちを眺めた。
「お前を殺してしまうと、今の生活がなくなる。私は、今の生活が、割と気に入っているのだ」
「……それは、よかった」
二人は笑みを交わし合う。その二人の間でフェリスはキョロキョロと顔を左右に動かしながら二人に視線を向けていた。
「魔力を補充しよう」
「そうか、助かる」
シャリオは右手の人差し指と中指を自分の唇に当てると、フッと息を吐きかけた。
「……ありがとう。ずいぶん楽になった。実は、魔力が底を尽きかけていたので、少し眠かったんだ。それにしても、すげぇな黒龍は。魔力を補充するのに相手の体に触れずにできるんだな。また今度、どうやったらできるのか教えてくれよ。しかも、投げキッスで補充というのは、オシャレだな」
「投げキッス?」
「……お子ちゃまには、まだ早いかもしれないな」
そう言ってリノスはフフフと笑う。シャリオとフェリスは何だかよくわからないと言った表情を浮かべる。
「リノス様、ポーションです」
そこにルアラが現れた。彼女は足早にリノスに近づくと、持っていたポーションを彼に手渡した。リノスはそれを一気に飲み干す。
「ああ。これでバッチリだ。しばらくはこの結界を維持できそうだ」
リノスは大きく息を吐き出すと、再び視線を城門の外に向けた。
「さて……この魔物たちをどうするかね。それに、これが起こった原因も調べないとな」
「サイリュースがいいだろう」
シャリオが呟く。彼女もリノスと同じく、門の外に視線を向けている。
「あの胸の大きいサイリュースならば、その歌声で何とかするだろう」
「なるほどな。それはいい考えだ。ソレイユの歌声なら、この混乱を静められるかもしれない。ありがとう、シャリオ」
リノスはそう言うと、目を閉じた。しばらくすると目を開けて、すぐに来るそうだと言って笑みを見せた。相変わらず門の外では魔物たちが通り過ぎていく。
「これほどの生き物があの森の中にいたとは信じられないな」
「相当の高ランクの魔物がやって来たか、大量のドラゴンが森に侵入したかのいずれかだろう。ただ、強大な魔物の気配は感じない。ということは、大量のドラゴンが侵入したか……」
シャリオが誰に言うともなく呟く。
「お待たせしました」
そのとき、ソレイユが現れた。彼女はいつもと変わらぬ妖艶な笑みを浮かべていた……。