第八百九十八話 必死の逃亡
アウバウトの見ていた夢は、ぺーリスと二人で食事をしているものだった。彼が狩ってきた魔物の肉を二人で食べている。特に料理などはせず、魔物の体に直接食らいついているという光景だった。リノスやリコが見たら、目をそむけたくなるような場面だが、彼にとってはそれがいつもの食事であり、違和感はなかった。
一体どのくらい眠っただろうか。アウバウトは体が軽くなっているのを感じた。ようやく傷が癒えたか、と思いながらも、まだ眠気がある。このままもう一寝入りしようと考えたそのとき、体に痛みが走った。
思わず目を開けると、確かに体が宙を浮いていた。だが、何か様子がおかしい。ふと周囲を見廻していると、何と巨大なドラゴンが自分の体を咥えて歩いているところだった。
これほどの大型種であれば、アウバウトを一飲みにすることくらいは造作もないことだった。それをせず、体を咥えたまま歩いているということは、巣穴に運び込もうとしているのだ。そこには腹をすかした仔竜が待っている。
冗談ではなかった。こんなところで仔竜のエサになっている場合ではない。自分は早くペーリスの許に行かねばならない。先ほどまで見ていた夢の続きを現実としなければならない。
体表が赤いところを見ると、おそらくレッドドラゴンだろう。ドラゴンの中で最も獰猛とされている種族だ。おそらくこのドラゴンはアウバウトを死んだと思っているのだ。今ここで、このベリアルが生きていると知ったら、ドラゴンはその強い顎の力で、彼の体を噛み砕くことだろう。
ベリアルの体表もそれなりの硬さは持っていたが、さすがにドラゴンの力には及ばない。今は動くべきではない。チャンスを待つのだ。彼は心の中でそう自分に言い聞かせた。
意外にもドラゴンの巣穴は近くにあった。アウバウトは不意に空中に投げ出されたかと思うと、体が地面に強かに打ち付けられた。背中の羽を使えば、こんなことにはならなかったが、それをするとドラゴンに気づかれる恐れがあったために、彼は敢えてまともにその衝撃を受けた。ドラゴンには気づかれなかったが、その代償として、必死で痛みに耐えることになった。
「ガアァァァ」
ドスドスとこちらに近づいている足音が聞こえる。どうやら二匹の仔竜がこちらに向かってきているようだ。二匹は鼻を近づけてスンスンとアウバウトの匂いを嗅いでいたが、やがて一匹の仔竜が彼の足にかぶりついた。それを見たもう一匹がアウバウトの左肩にかぶりついた。
「ゴァァァァァ~」
アウバウトを運んできた母竜と思しきドラゴンが咆哮を上げた。その瞬間、体にかぶりついていた仔竜たちが彼から離れた。周囲は暴風が吹き荒れている。おそらく母竜がさらにエサを狩りに行くべく、翼をはためかせたのだろう。その母親を子供たちは見送っているようだった。
母竜が去ったのだろう。仔竜たちは再びアウバウトの体にかぶりついた。もはやじっとしている必要はない。彼は素早く立ち上がると、二匹の仔竜を睨みつけた。だが、仔竜たちは怯むことなく、何のためらいもなく彼の両足にかぶりついた。
「コノヤロウ!」
彼は仔竜たちを足蹴にして引き離そうとする。だが、腹を減らした子供たちは、容易に離れようとはしなかった。
「ええい!」
翼をはためかせて飛び上がる。やはり痛みが全身を駆け巡るが、まだ耐えられる痛みだ。体は順調に回復しているらしい。ちょっとした嬉しさを感じるが、すぐに足に激痛が走る。仔竜たちが相変わらず足にかぶりついているのだ。
必死に足をばたつかせながら仔竜たちを引き剥がそうとするが、なかなかに顎の力が強い。彼は右手に魔力を集中させると、それを思いっきり一匹の仔竜にぶつけた。
「きゅあーん!」
何とも可愛らしい声を上げて仔竜は地面に叩きつけられた。さすがはレッドドラゴンだけあって、大きなダメージはないらしい。すぐに立ち上がって、こちらに視線を向けている。そのとき、もう片方の足に激痛を覚えた。もう一匹が顎に力を入れたのだ。食いちぎられるのではないかと思われる程の痛みが走る。
先ほどと同じように右手に魔力を集中させて放つ。まともにそれを食らった仔竜は、先ほどと同じように地面に叩きつけられた。
「フン、バカが」
アウバウトは悪態をつきながらさらに上空に飛び上がり、その場を離れた。
翼を動かすたびに痛みが走る。そのためにいつものように飛行することができない。ドラゴンの巣があるこの場所は危険であることは十分に承知していた。仔竜を攻撃しているのだから、あの母竜が後を追ってくる可能性は高かった。一刻も早くあのドラゴンの縄張りから離れなければならなかった。
「グモモー。グモモー。グモモー」
彼は後ろを何度も振り返りながら必死で翼を動かす。こんなところで死ぬわけにはいかない。何としてもあのペーリスを嫁にしなければならない。
すでに二人が暮らす場所も探してあった。ベリアル王国のすぐ近くの森だ。そこにちょうどいい洞窟を見つけてある。ペーリスが育ったベリアル城には遠く及ばないが、この自分が気に入っているのだ。ペーリスもきっと気に入るに違いない。何より、森の中には大ネズミなどたくさんの獲物がいて、食べるには事欠かない。二人で暮らすのにはもってこいの場所だ。
「グモモー。ペーリス、ペーリス、ペーリス!」
いつしか彼はペーリスの名前を叫びながら翼を動かしていた。一心不乱だった。
どのくらい飛び続けただろうか。気がつけば海の近くまで飛んできていた。彼はまるで落下するようにして砂浜に降りた。
喉が渇いていた。思わず波打ち際まで歩いて行って海水を口に含んだ。
「ウエッ! ペッペッペッペ!」
潮の味が口の中いっぱいに広がって、とても呑み込むことができなかった。彼は四つん這いになりながら乱れた呼吸を何とか整えようと努める。
ゆっくりと深呼吸を繰り返す。こうしていれば、体の傷は回復するはずだ……。だが、やはり体の痛みはおさまることはなかった。
ふと、水の香りがした。振り返ると深い森があった。どうやらあの森の中に川か泉があるららしい。彼は迷わずに足を踏み出した。
森に入ってしばらくすると、川が見えた。さすがは自慢の嗅覚だと思いながら、川に頭を突っ込んで、必死で水を飲む。そのとき、川の中に数匹の魚が泳いでいるのが見えた。彼は頭を起こすと、右手に魔力を集中させると、川の中にそれを打ち込んだ。
大きな爆発音とともに水柱が上がる。打ち上げられた川の水が雨のように降ってくると同時に、魚も降ってきた。アウバウトはそれらを片っ端から食らっていく。ついでに、川面に浮いた魚も手で掴み、口の中に放り込んでいく。
我ながら惚れ惚れするような腕前だ。肉も魚も、ベリアル族の中で最も優れた狩りの腕前を持っている自信がある。きっとこの腕前を見れば、ペーリスも考えを変えるだろう。俺ならば飢えさせることはない。いつでもどんなときでも、腹いっぱいに食べさせてやる。あんな人族の許では食べられる量など知れているだろう。やはり、俺こそがペーリスを嫁にする資格があるのだ。彼は魚を頬張りながらそんなことを考えていた。
自慢の鼻で森の中を調べてみる。ドラゴンのような強大な力を持った者はいないようだ。しばらくはここで休んでいこう。彼はそう考えて森の奥に進んでいった。
ベリアルは魔物ランクの中でもかなり上位に位置する種族だ。この森にはそれほどの魔物はいないのだろう。一体何事かと、続々と魔物たちがアウバウトの許に集まってきた。
「ええい! 煩わしい!」
彼はそう言って右手に魔力を集中する。そんな攻撃をされてはたまらないと、魔物たちは蜘蛛の子を散らしたように雲散した。
ややあって彼はちょうどいい洞窟を見つけた。そこに入ってごろりと横になる。まだ体に痛みはある。彼は再びゆっくりと深呼吸を始めた……。




