第八百八十八話 かわいい
「あああ~やっと一息つけるな」
リノスはそう言って背伸びをした。彼は自宅のベッドに横になりながら、心底、ホッとした表情を浮かべていた。この日、ようやくタルカト王国からの依頼が完了して、メイたちが引き上げてきたのだ。
怒涛の日々の連続だった。暴れるカルッツェを王都に強制送還してから、クレイシマを陥落させるまで、彼は色々と助言をするなどして、近習を勤めていたブトを手伝った。そのクレイシマに籠るヨシマ兄弟は程なくして降伏したが、その際、ヨシマ本人が出し抜けにタルカト軍の陣に現れ、自ら降伏を受け入れると言ってきたのだ。しかも彼はリノスの探索スキルを掻い潜ってやって来た。これにはリノスも驚きを隠さなかった。
彼は全身を獣の皮で覆っていた。一見すると小柄な熊かと見紛うばかりの風体であった。それはダグリベアーという熊の皮であり、それは気配を消すことに長けた熊であった。どうやらその皮と毛に気配探知を掻い潜る秘密があるらしく、彼はそれに大いに興味を持った。
「ダグリベアーの皮は非常に希少なものである。奴らは用心深く、滅多に人前に姿を現さない。これは我が父が数十年の時をかけて熊を駆り、そして拵えたものだ」
ヨシマはそう言って胸を張った。彼は、この気配を消すことのできる熊の皮と、自分の首をもって王都に交渉してもらいたい。クレイシマの皆の命を助けてやって欲しいと懇願した。聞けば食料の準備が整う前に籠城戦に入ってしまったため、城内では食料が尽きている状態なのだと言う。ブトは降伏を承知し、ヨシマ自ら王都に赴いて申し開きをすることを勧めた。国王様もお目覚めになりましたので、命を取るようなことはなさいますまいと言って彼を慰めた。
とはいえ、クレイシマの状況は急を要していた。このままヨシマが王都まで行き、ここに帰って来るまでにはどんなに速くとも二日はかかる計算だ。恐らく王都では彼は軟禁状態に置かれるだろう。そうなると、クレイシマへの食糧支援は少なく見積もっても一週間以上の時間がかかると予想された。
仕方なくリノスは、当座として転移結界を使ってアガルタから食料を支援することにした。結界能力を秘匿しながらの作業はなかなかに骨の折れる作業ではあったが、そのお陰もあって、クレイシマで餓死者を出すことは避けられた。
これで一息つけると思った矢先、今度はメイがクレイシマに行くと言い出した。そこでは疫病が流行りつつあり、子供たちが罹患しているという話を聞いた彼女は、ポーセハイらを伴ってクレイシマに向かった。むろん、そこにはリノスも同道した。彼女らはそこで医療活動を行い、疫病が流行る一歩手前で食い止めることに成功した。クレイシマの人々はメイに深く感謝するとともに、何故か食糧を支援したのもメイのお蔭となっていて、リノスは何とも言えぬ気持になっていた。また、アガルタにおける彼の仕事は待ってはくれず、それらの作業と日常業務を夜遅くまで行う日々が続いていたのだった。
そうした諸々の事柄をようやく終えて、彼はようやく一息つける時間を得た。彼の隣ではシディーが寝るための準備を整えようとしている。彼女は顔に何やら液体のようなものを付けると、パンパンと音をさせながら両手で自分の頬を叩いた。
「それは、効くのかい?」
リノスの問いかけにシディーは目だけを彼に向けた。
「気休めだと思っているのでしょ?」
「そんなことはないけれど、その水だけで本当にお肌がすべすべになるのかなと思ってさ。俺のイメージでは、もっと色んな液体を使わなきゃいけないんじゃないかと思ってさ」
「無色透明ですけれど、この中には色々な成分が含まれています。透明だからと言って何もないと思っていると、とんでもない失敗をすることがあります」
「ああ、確かに。ニザ公国が毒に侵されたときも、無色透明な毒だったな」
そこまで言ってリノスはハッとする。シディーの心の傷に触れてしまったと思ったのだ。
「う……すまん」
「別に謝ることではありません。いい経験になりました」
「そ……そうか」
シディーはそう言ってベッドに入ってきた。何となく決まずい雰囲気となってしまったので、リノスはコホンと咳払いをしながら口を開く。
「タルカト王国はこれで安泰なのかな」
「まあ、国を揺るがすような大事件はしばらく起こりそうにもありませんから、これでいいのではないでしょうか」
「そうか。あの国王も意識を回復したからな。しばらくは安泰だな」
「いいえ。その国王様は近いうちに亡くなる気がします」
「え? そうなの?」
「まあ、一年や二年くらいは生きるでしょうけれど、五年先には生きていない気がします」
「……そうか。ということは、あのカルッツェと言う男が跡を継ぐことになるんだな」
彼はそう言うと大きなため息をついた。
「それにしても、変わった男だったな。普段は好青年なんだが、熱が出ているとまるで別人のようになる。あれは鬼だよ。あれは病のせいなのかね。病気で人はああも変わるものか。もしかしてあれは、彼の持っている狂気なんじゃないかと思うよ。三百人の首を刎ねて相手の城に放り込むなんて発想は、普通の人間はできないぞ。そういう意味で彼はかなりの上級者だな」
「狂気、なんてものは、誰でも持っているものだと思います」
「そうか……な」
「それがたまたま、病気を機会に露出したにすぎません。とはいえ、メイちゃんやリノス様の助けがなければ、あの国はかなり大変なことになっていた気がしますね」
「やっぱり、内乱になったかな」
「そこまでにはならないと思いますが、そのクレイシマ、でしたっけ? そこの人々からは子々孫々まで憎まれることになって、長い間抵抗するような気がします。それに、ダオラの人々からも恨まれて、長い間あの国は戦いに巻き込まれていくような気がしますね。メイちゃんやリノス様のお蔭で、これから先はそんなことは起こらないと思いますけれども」
「そうか……まあ、安泰となってめでたしめでたし、と言うところか」
「う~ん。まあ、色々な問題は起こりそうではありますけれど、国が崩壊するようなことにはならないと思いますね」
「色々な問題と言うのが気になるけれど、国が崩壊しないならいいか」
「今回の一件は、何よりメイちゃんが特効薬を開発したことが一番大きいです。あの薬は色々な用途があります。何せ、衰えた部分を再生する効果があるのですから」
「へえ……そうなの?」
「詳しい話は割愛しますけれど、私が今塗ったこの液体も、お顔の肌を再生させる効果を持たせています。まだ実験段階ですけれど、私のお顔がツヤツヤになった気がしませんか?」
シディーの言葉に、リノスは思わず手を彼女の頬に伸ばす。何となくだが、肌がきれいになっている気がしなくもなかった。だが、肌の美しさに関しては、やはりまだまだリコには及ばないと感じた。
「……もしかして今、リコ様のことを思っていました?」
「……いいえ」
「……リコ様と変わりましょうか?」
「……シディーでいいです。きれいなシディーがいいです」
「そんなこと言って~。みんなにきれいって言っているんでしょ?」
「う~ん。きれいとは違うかな」
「どういう意味?」
「きれい……というのはメイかな。リコは美人。マトは……恰好がいい。ソレイユはセクシー。そしてシディーは……」
「私は、何ですって?」
「かわいい」
「へ?」
「シディーはきれいというより、かわいい、だな」
「……わかっているじゃないですか」
顔を真っ赤にしながら嬉しそうな表情を浮かべるシディーの姿は、本当にかわいいものだった。彼は頷きながらシディーの肩を抱くのだった。
第二十六章これにて終了です。いつもの通り、間話を数話を投稿した後、新章に突入する予定です。




