第八百八十七話 我、老いたるか
その報はダオラ帝国皇帝・ガノブの耳にも達していた。彼の許にはサミの乳母、カワバからその報告がなされていた。
シェングの容体は安定しているが、その命はそう長くはないとカワバは書状に書いていた。その意見にガノブも同意するが、おそらくシェングはカワバの予想を超えて生きるだろうと彼は見ていた。
それよりも気になるのがカルッツェのことだった。報告では、彼は薬を飲んで目が覚めたあと、まだ陽が高いにもかかわらずサミを寝所に連れ込んで、まるで獣のように襲い掛かったとあった。そして、夜が明けるまで彼は延々とサミの体を弄び、サミはずっとすすり泣きをしてその責めに耐え続けていたと言う。カワバがその現場を見たわけではないだろうし、もしそれが本当のことであれば、彼女は自らの命も顧みずに部屋に飛び込んだことだろう。だが、そうしたことは一行も書かれておらず、額面通りに受け取れば、カワバは目の前で蹂躙されているサミの様子を、指をくわえて見ていたことになる。そんなことを易々と許す女性ではなかった。
ガノブは再び手紙を手に取った。改めて読むと、その表現にはかなりの誇張が含まれていて、さらには、カルッツェに対する憎しみの感情も見て取れた。この手紙は主君であり、同時に娘でもあるサミと言う宝物を取られてしまったカワバが、何としてもサミをその手に取り戻したいという感情のままに筆を走らせ、自分に訴えていることをガノブは看破していた。確かに、カルッツェに強引に寝所に連れ込まれたのは事実であろう。だが、中からは助けを求める声は上がらず、カワバは部屋の前をウロウロしていたにすぎない。そして、そんな彼女を屋敷の者たちが宥めすかして部屋に連れて行った……それが真実なのではないか。その手紙を見ながら彼は、娘が完全に自分の手から離れてしまったことを見抜いていた。
もし、以前のサミであったならば何としてでもカルッツェを拒絶しただろうし、最悪の場合、舌を噛み切って死ぬくらいの覚悟が彼女にはあった。しかし、口では拒否をしていたものの、カルッツェに寝所に連れ込まれてからは、抵抗らしい抵抗もせず、声すら上げずに唯々諾々と彼に従っているところを見ると、やはり娘はカルッツェを心底愛してしまっていると見てよかった。
若い頃からどちらかと言うと、男女の間柄に関しては奔放であったこの皇帝は、愛情というものの厄介さを承知していた。それは若い頃に見染めた夫ある女性が最後までガノブを拒否して命を断った経験に由来していた。
……まさか、あのサミが、な。
ガノブは胸の中でそう呟きながら苦笑する。親として娘にそうなってほしくはなかったが、現実としてカルッツェに取り込まれてしまった以上、彼女のことは諦めざるを得なかった。
ガノブは紙とペンを手に取ると、そこに何やら書き込み、それが終わると、パンパンと手を鳴らした。
すぐに家来が入室してきた。彼はその紙を差し出すと、乾いた声で口を開いた。
「これを、タルカトのカワバの許に届けよ」
「ははっ」
家来はそう言って一礼して退室していった。ガノブが認めた書状には、サミのことは諦めろと書かれていた。そして、その上で、遠からずサミとカルッツェの間には子供ができることになるだろう。そうなった場合は、カワバが命に代えてでもその子供を養育せよと書いてあった。ガノブはタルカト王国を内側から崩そうとする野望を捨ててはいなかった。
「策が為さねば、また新たな策を立てればよいのだ」
彼はそう言って、誰に言うともなく呟き、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
つい先ほど、クレイシマが陥落し、ヨシマ兄弟が降伏したという報告があったばかりだ。ヨシマ兄弟に関しては、実際のところあまり期待してはいなかった。タルカト王国内を引っ掻き廻すだけ引っ掻き回し、内部崩壊の一助にでもなれば御の字であると考えていたのだが、結果は思った以上に悪いものとなった。
結局この兄弟は何もできずに終わった。ダオラの援軍が来ないことを知った翌日に、彼らは降伏していたのだった。クレイシマのすぐ傍にあるツモト村にタルカト軍が居座られては、彼らに残された唯一の補給ルートが断たれているために、彼らは干上がる他はなかったのだ。結果的にタルカト側は最小限の被害でクレイシマの反乱を押さえて見せ、単にカルッツェの優秀さを際立たせただけに過ぎなかった。それよりも、援軍にやった一千の将兵の損害がガノブにとっては痛手であった。
報告によれば、一千のうち約七百名が戦死したとある。こともあろうに、山中の行軍のさ中に窪地に降りて休憩をしていたらしい。指揮官は一体何をやっていたのか。もし、生きて帰ってきたならば、ガノブは徹底的にその者を糾弾したことだろう。
それよりも気になるのが、アガルタ王リノスがその場に現れたという報告だ。なぜ、アガルタ王がそんな場所に現れたのか理解に苦しむが、ガノブの神経を逆なでしているのが、そのアガルタ王らしき男が言った、つまらないことをするな、という言葉だった。その報告を聞いたとき、彼は、タルカト王国は安泰であり、手を出したところで無駄なことであると言う意味だと考えた。だが、時間をおいた今、もう一度その言葉を考えてみると、アガルタ王は武人ならば策を弄さず武人らしく正々堂々と戦いを挑めと言っているのではないか。ガノブは腹の中でそう嘯いた。
「そんな馬鹿正直なことをやっていては、国は立ちいかぬ」
思わずそんな言葉が口をついて出た。自分でも予想もしていなかった行動に、彼は苦笑する。
「領土を広げてゆかねば、この国は立ちいかぬ。アガルタとは、違うのだ」
彼はふと、ダオラ帝国とアガルタ王国との国力の差を比較してみた。計算は得意だ。彼は暗算でざっと両国の力の差を計算してみた。結果はすぐに出た。アガルタはダオラのおよそ五十倍の国力を持っていた。まともに戦って勝てる相手ではなかった。
ガノブは負ける戦いは決してやらない冷静さを持っていた。アガルタを敵に回すべきではない。アガルタが敵に回るような行為をするべきではないと心の中で断じた。と、すると、先ほどのカワバに宛てた手紙は、寧ろ自分の首を絞める結果となる可能性があった。彼は一瞬、家来を呼び戻そうかと思ったが、結局何も言わずに、そのまま手紙を届けさせることにした。
「まあ、カワバが勝手にやったということであれば、我が国に類が及ぶことはあるまいて」
彼はそう言って立ち上がった。
「カルッツェにアガルタ王リノス、か」
彼は誰に言うともなく呟いた。片や女性を昼間から寝所に引き入れて行為に及ぶ猛々しさと若さを持った男。片や世界にその名を轟かせると同時に、全く想像もしない行動に出る、出られるスキルと力を持った男……。まだ見ぬその二人の男たちは、これからのガノブの大きな障壁となるような気がしてならなかった。
「余があと十年若ければ、な」
彼は若かりし頃の自分を思った。向こう見ずで即断して行動していた自分……。自分が一番であると信じて疑わなかったし、事実、己がやろうとしてきたことは全て叶えてきた。自分の姿を鏡に映して見てみると、皺が増え、髪の毛にも白いものが増えてきていた。明らかに自分が年老いているのがわかる。認めたくはなかったが、彼は確実に死に向かって歩き始めていた。
ふと、自分の死後の国のことが頭をよぎった。他国に蹂躙される帝都……。そんなことはあるはずはないと首を振る。ガノブは深呼吸をすると、足早に自室を後にするのだった……。




