第八百八十六話 目覚め
王都に戻ったカルッツェは、すぐさまメイらの作った薬を服用した。否も応もなかった。
カルッツェはまるで夢を見ているかのような感覚に囚われていた。熱のせいもあったのかもしれないが、王都に戻って以降は、フワフワとした感覚を覚えて、自分の体が自分の体でないような感覚だった。
つい先ほどまであれだけ暴れていたのにもかかわらず、腹の底から湧き上がる熱のようなものは一切鳴りを潜め、ただ茫然としたまま鎧を脱がされ、ベッドに寝かされた。森の中でブトを斬ったのは、あれは夢か幻だったのだろうか……。そんなことを考えながらカルッツェはただただされるがままに身を任せていた。
目の前には目の垂れたポーセハイと聖女・メイリアスが甲斐甲斐しく世話をしてくれている。そして、その後ろでは、アガルタ王リノスが腕を組みながら鋭い視線を向けている。いや、やはりこれは夢だ。夢なのだ。あの聖女が自分の世話をするわけはない。そして、アガルタ王リノス……。あの王がこのような山深い土地に来るわけなどないのだ。そんなことを考えていると、不意に彼の目の前にコップが突き付けられた。
「ゆっくりと飲んでください。飲みにくければ、何度かに分けても構いません。一応、飲みやすいように甘い味を付けてあります」
聖女がそう言っていた。いつものような朗らかな表情ではなかった。見たこともないような厳しい表情は、その重大さを物語っていた。きっとこれを飲まねば死ぬのだろうな……。カルッツェは呆然とした意識のまま、突き付けられたコップを手に取った。
とても良い香りがした。これは、薬の香りなのだろうか。いや、きっとこの聖女の香りだ。清潔さを感じさせる清々しい香りだ。まさに、この聖女を表すような香りだ。できることならもうしばらくの間、この香りに包まれていたい……。そんなことを考えながら彼はゆっくりと周囲を見廻した。
ふと、アガルタ王と眼が合った。相変わらず鋭い眼差しを向けてきている。どうして彼はそのような表情を浮かべているのだ……。ああ、俺の女に手を出すなと言っているのか? 出すわけはない。出したところで、この聖女は自分には転ばないだろう。力づくで思いを遂げたところで、どうにもなるわけでもない。いや……彼女に対してはそのような下卑たことはできないだろう。というより、反応自体起こらないだろう。そんなことを考えていると、ふと、香辛料のような香りが鼻をついた。
「さ、ゆっくりと飲んでください」
目の垂れたポーセハイが、噛んで含めるような言い回しで話しかけてきた。ああ、そうだ。薬を飲まねばならないのだと自分に言い聞かせながら、彼はコップに口を付けた。
独特な味のする薬だった。甘いと思いきや、その後から何とも言えぬ渋みを感じる。嚥下した後、鼻腔にちょっとした臭気を感じる。飲めなくはないが、積極的に摂取するかと言われれば否だ。徐々に自分の顔が歪んできているのがわかる。できればここらへんで服用を止めたいと思いながら、彼はようやくのことで薬を飲み干した。
「はい。もう、大丈夫ですよ。ゆっくりとお休みください」
聖女・メイリアスが額に手を添えながらそう呟いた。先ほどまでの厳しい表情ではなかった。いつもの、朗らかで優しい笑顔だった。カルッツェは安心したように、そのまま深い眠りに落ちていった。
「メイ様」
その直後、慌ただしく入室してくる者がいた。チワンだ。走ってきたのだろうか。彼は肩で息をしていた。その表情は厳しいものだった……。
◆ ◆ ◆
国王シェングは夢を見ていた。暗くて細い道をゆっくりと歩いていた。一体ここはどこだろうか。キョロキョロと周囲を見廻しながら、彼は歩を進めていた。
ふと、広い場所に出た。と、同時に奇妙な声が聞こえてきた。
「あんさんは船に乗りなはれ。あんさんは……歩いて行きなはれ。心配はいらん。くるぶしまでや。じきに渡れまっさ。ええと、あんさんは……下流の方に行きなはれ。……そうや、深ぅおまっせ。首まで浸かって行きまんのやで」
見ると一匹の小鬼が棒で指図をしている。その前には人々が一列に列をなしている。皆、唯々諾々と並んでいる。一体これは何なのだろうか。
徐々に周囲が明るくなってきた。そこは川が流れていた。人々はある者は船に乗って渡り、ある者は歩いて渡河していた。対岸に視線を向けると、何やら見覚えのある者の顔が見えた。
……父上!?
それは紛れもなくシェングの父・ブルトだった。暴虐の限りを尽くし、タルカト王国の国力を減退せしめた暴君だ。シェング自身も、この父から罵詈雑言を浴びせられ、暴力を受けたことは一度や二度ではなかった。そんな父がこちらを睨みつけながら仁王立ちしていた。
……何を今さら。
シェングは心の中でそう呟いた。もう、あなたの時代は終わったのだ。今更我が目の前に出てきたところで、タルカト王国は変わらない。もう、あなたの手には戻らないのだと心の中で呟いた。
相変わらず父・ブルトは顎をクイッと上げ、まるで見下ろすかのようにシェングを睨みつけている。その眼には憎悪の念がありありと見て取れた。それはそうだろう。この父に毒を盛ったのは、誰でもない。自分自身なのだ。しかしそれは国を救うためには仕方のないことだった。
吐き気を覚えた。シェングは踵を返すと、足早にその場を離れた。
……ふと、目が覚めた。目の前に一人の女性の顔が見えた。それは亡き母の顔だった。シェングの両目から滂沱の涙が溢れだした。
「は……母上……」
必死で声を振り絞った。手が握られた。額に手を添えられた。幼い頃、眠れないとき、病になったときに、よく母がやってくれたことだった。シェングはさらに言葉を振り絞る。
「わ、私は……やりましたね? こ……この国を……立て直し……ましたね? ご先祖様に……叱られませんよね?」
シェングの言葉に、女性は静かに頷いた。彼はまるで、子供のように泣きじゃくりながら、再び眠りに落ちていった。
◆ ◆ ◆
「え? もう目覚めたのか!?」
カルッツェが目を開けると、そんな声が耳に入った。見ると、側には数人のポーセハイがいた。彼らは一様に驚きの表情を浮かべている。
「水を……」
そう言って水を持って来させて、一気に喉に流し込み、大きくため息をついた。よく寝たという心地よい感覚があった。ふと、服が濡れていることに気がついた。これは……汗をかいたためだろうか。そんなことを考えていると、ポーセハイの一人がやおら話しかけてきた。
「薬を服用されてまだ、二時間しか経っておりませんが……お身体の具合はいかがでしょうか」
「……何の問題もない」
そう言って彼はベッドから降りた。これまで感じていた熱や倦怠感はなくなっていた。彼はうーんと背伸びをすると、そのまま部屋を後にしていった。後ろからポーセハイがメイ様の診察を受けてくださいと言ってきたように聞こえたが、そんなことはどうでもよかった。彼は一刻も早く妻のサミに会いたかった。
「きゃっ」
部屋の扉を開けると、サミが驚きの声を上げた。まさか突然扉を開けられるとは思ってもみなかったのだろう。彼女の前には乳母であるカワバが座っていた。彼女は怪訝な表情で彼を見ている。
「どうなさいました? お薬を飲んだと聞きましたが……」
「ああ飲んだ。もう心配はない」
そう言って彼はサミの前に座ると、その体を抱きしめた。
「まあ、こんなに濡れて……まずはお着替えを」
「無用だ。参れ」
「どちらに?」
「寝所だ」
「……まだ陽が高ぅございます」
「参るのだ」
カルッツェはそう言って強引にサミの手を引いた。カワバが割って入ろうとしたが、彼は構うことなくサミを寝所に引きずっていった。
程なくして国王・シェングは意識を回復した。国王目覚める、の報は、すぐさま王都とその周辺国中を駆け巡った……。




