第八百七十八話 一体どうして?
カルッツェの言葉に、隣に控えていたサミがキョトンとした表情を浮かべた。夫が何を言っているのかがわからないと言った表情だった。だが、徐々にカルッツェの気配が変わってきているのに敏感に気づいていた。今まで感じたことのない、異様な雰囲気だった。
「ご明察の通り、こちらの方は、アガルタ王、バーサーム・ダーケ・リノス様でございます」
不意にメイリアスが口を開いた。その声を聞いた直後、カルッツェは片膝をついて畏まった。
「これは、アガルタ王におかせられましては、ご無礼の段、平にご容赦を」
「ああ~よしてください、よしてください。そう言うのはナシで」
リノスが両手を振りながらカルッツェの前まで行き、同じように片膝をついた。その様子を見たカルッツェはさらに深く頭を下げた。
「いやいやいや、お願いします。そう言うつもりで来たわけじゃないので。頭を上げてください」
リノスにそう言われてカルッツェは、ゆっくりと頭を上げた。その様子を彼は満足そうな笑みを浮かべながら頷いた。
「今日はそうした公務的なことではなくて、私的なこととして参りました。今の私は、王ではなく、ただの天ぷら屋のオヤジです」
「あ……あの……」
サミが思わず口を開こうとする。アガルタ王・リノス。その名前はもちろん知っている。父・ガノブが一度、煮え湯を飲まされている。あまり他国の王を褒めない父が、油断してはならぬと言ってはばからない数少ない王の一人だ。まさかその男が目の前に現れるとは思ってもみなかった。彼女はもし、アガルタ王に会うことができるならと想像してみたことがあった。そのときは色々な質問を彼にぶつけようと考えたが、口をついて出た言葉は、思ってもみないものだった。
「一国の王とは思えぬほどの……平民のようなお方なのですね」
思わずハッ、と口に手を当てる。それは言ってはならぬ一言だった。だが、リノスはカラカラと笑い声を上げると、サミに向かって、グッと親指を立てた。
「そう言っていただけると、嬉しいです」
そんなサミにカルッツェは、一体何を言うのだと言わんばかりの表情を浮かべている。
「実は、お二人のことをお話ししたところ、ご主人様……アガルタ王様が美味しいものを食べるのが一番であると仰いまして……。そうしましたら、リコ様が天ぷらを振る舞いましょうと言っていただいたのが、この間の天ぷらです」
「……リコ様? あの……アガルタ王様の、姫君でしょうか?」
サミの言葉にリコが驚いた表情を浮かべた。彼女自身、まさかそんなことを言われるとは思ってもみなかった。
「いえいえ、俺にこんな大きな娘はおりません。紹介します。妻のリコレットです」
「リノスの妻、リコレットでございます」
リコはそう言って少し膝を折って貴族式の挨拶をした。それを受けてサミが深々と腰を折った。
「これは……大変ご無礼を申し上げました。お許しくださいませ」
「いいえ! 何を仰いまして! とても嬉しゅうございましたわ」
恐縮するサミに、リコは柔和な笑みを浮かべた。
「やはり、そうであったか」
カルッツェがそう言って頭を左右に振った。彼は呆れたような表情を浮かべている。
「以前お目にかかったとき、こちらの女性は貴族の、しかも大貴族の奥方ではないかと思ったのだ。その洗練された振る舞いが見事であった」
「お褒めにあずかり、光栄でございますわ」
リコが笑みを浮かべる。その笑みを見てカルッツェは素直に美しいと思った。
「実はね、この天ぷら食事会を提案したのは、妻のリコなのですよ。お二人を救いたいと言いましてね。というより、同じ妻のメイも、本当にお二人の体調を心配して、何とかしたいと常日頃から言っていましたので、リコも何とかしたいと思ったようです」
「リノス、あなたが二人は死んでしまう、などと言うからですわ」
「いや、それはあくまで物語の話だから」
「でも、お二人のお蔭で、カルッツェ様もサミ様も、こんなに元気になられました」
「まあ、よかったよかった、だな」
そう言って三人は笑みを交わし合った。その様子をカルッツェとサミ夫婦は、目を白黒させて眺めていた。
二人とも、まるで幻を見ているかのような感覚に囚われていた。聖女・メイリアスだけでなく、世界に冠たるアガルタ王が目の前にいる。しかも彼は妻にリノスと呼び捨てにされていて、それに対して何ら不快感を示していない。夫の、さらには王の名前を呼び捨てにするなどということは、二人の常識では考えられぬことであった。
「しかし……どうして、我らにそこまでしてくださるのか」
カルッツェが決意を込めた目で話しかける。その言葉に、メイは真剣な表情を浮かべた。
「病人を治療するのは、医師として当然の勤めです」
「そ……それはわかるが……」
「医師として、患者が治癒する最善の手法を用いるのは当然のことです」
「それに見合う報酬が……」
「必要ありません」
カルッツェは感動していた。単なる山国の一王国の王太子に、そこまで考えてくれていたのかと。一瞬でもアガルタ王が何か礼を要求してくるのではないかと思った自分が恥ずかしかった。
「まあ、せっかくです。天ぷらを作りましょう」
「いっ、いや……それは……」
「よろしいではございませんか」
「は、なに?」
サミが突然口を開く。思ってもみなかった言葉に、カルッツェは鳩が豆鉄砲を食らったような表情を浮かべながら妻を見た。
「私はもう一度、あのてんぷらが食べとうございます」
「そうですか! では、腕によりをかけます」
そう言ってリノスは笑顔を浮かべた。
それからリノス夫婦は様々な料理を提供したが、カルッツェは正直、その料理を味わうことはできなかった。彼は心の中では、これを機会にアガルタ王と何らかの接点を持ちたいと考え、あわよくばタルカト王国との同盟を結びたいという思いを持っていた。だが、どうしてもそれを言い出せなかった。言い出したらば、この二人に、いや、聖女・メイリアスさえにも距離を置かれてしまうような気がしていた。そうした心にモヤモヤを抱えながらの食事は、満足に味わうことはできなかったのだった。
一方でサミは、供される料理を美味しい美味しいと言って、すべて食べた。さらには、リコレットに天ぷらの作り方を詳しく聞くほどであった。そんな妻の様子を見ながらカルッツェは、さすがにガノブの娘だけあって、腹が据わっていると見直したのだった。
すべての食事を終え、リノス夫婦は笑顔で帰っていった。メイリアスも、カルッツェ夫婦に関しては、全く問題はなくなりましたと言って、太鼓判を押してくれた。そして、タルカトに帰ったら、これまで苦しんでいたあの病の特効薬を飲んでもらうと言われたのだった。
部屋に帰り、風呂に入って、二人はベッドに入った。一体あの食事会は何であったのだろうか……。自分から言い出したことであるのにもかかわらず、何か、触れてはならぬものに触れ、見てはならないものを見てしまった感覚がぬぐえなかった。
「……楽しかった」
隣のでカルッツェが悶々としている中、サミが天真爛漫な表情で呟く。さすがに、そんな彼女の様子に彼は呆れてしまった。
「そなたは……アガルタ王とリコレット王妃を目の前にして、よくそれだけ楽しんでいられるな」
「だって……あのお二人は面白いのです」
「面白い?」
「まるで兄弟のように話しておいででしたわ。あれだけの大国の王なのに、そうした威厳みたいなものが一切なく、気さくなお方でした。我が父ガノブとは正反対のお方でした。きっと、アガルタ王様のああした大らかさが、アガルタを強国たらしめているのでしょうね。私も、あなた様と、ああいう夫婦になりたいと思います」
サミはそう言ってカルッツェの手を握った。その手は仄かに温かく、彼の不安をゆっくりと溶かしてくれるような温かさだった……。
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