第八百四十八話 出現
伝令からの報告を聞いたガノブは一瞬、自国の勝利を確信した。だが、すぐにその考えを否定した。海上に陣を張るという行為は明らかに悪手であり、国家存亡をかけての戦いを行う上で、絶対に選択しない、いや、してはならない陣形だった。
ガノブはケダカへの侵攻を悲願としてきたその一方で、その王であるビオンの能力は認めていた。それは、ビオンが、前王が亡くなって以降、失地回復を試みたガノブの侵攻をすべて退けてきたことによるものだった。
勇敢さと狡猾さを併せ持つ男……それがガノブのビオンへの評価だった。その一端は、彼に仕える老臣たちの支えもあっただろうが、それでも、僅かの兵を引き連れて、まるで決死隊のごとく突撃してくる様に、彼は好感を持っていた。
そのビオンの軍勢が海上に展開しているのは解せなかった。兵力はダオラ軍が圧倒している。そんな軍勢を海で出迎えるとすれば、ダオラを上回る火器を備えている可能性があった。だが、周辺のフラディメ、サンダンジからは距離を置かれ、頼みとする老臣たちの心も離れてしまっている今、ビオン一人でそのようなものを備えられるとは、到底考えられないことであった。
「海に展開している軍勢は、確かにケダカ軍か」
ガノブは伝令に尋ねた。だが、兵士は困惑した表情を浮かべながら口を開く。
「それは……わかりません。ただ、沖合に軍勢が展開しているのを視認したのみでございます」
「引き続き見張りを怠るな」
ガノブはそう言って伝令を下がらせた。
実際、ダオラ帝国の見張り兵が視認した軍勢は、マトカル率いるアガルタの軍船だった。彼女は驚異的な速さでケダカ王国に到着していた。
リノスは軍船に戻ってくるたびに、予想を超えた速さで進む船の動きに満足していた。マトカルを褒めると彼女は無表情のまま、いい風が吹いているからだと言うのみだった。実際、この時期は強い北風が南に向かって吹くことが多く、マトカルはその風を巧みに利用して軍船を驚異的な速さで進ませたのだった。
むろんこれは、普段から行われている訓練の賜物でもあった。アガルタ軍はガルビーの荒れた海で常に訓練を行っているために、その操舵術は世界屈指のレベルに達していた。そうした、自然の力と技術力をアガルタ軍は上手に取り入れていたのだった。
アガルタ軍が予想以上の速さで到着したと聞いたビオンは、腰を抜かすほどに仰天した。彼は当初、その報告を信じなかった。そして、自ら愛馬レンシルを駆ってダオラ軍を迎え撃つ海岸線までやって来て、自らの目でその姿を確認したのだった。
ケダカ軍の士気は俄然上がった。総司令官シュリは軍勢を率いて海岸線に赴き、そこで野戦築城とも言うべき土木工事を敢行した。むろん、そのような付焼刃的なもので殺到するダオラ軍を食い止められるはずもなかったが、こうしたシュリの何としても国を守るのだという姿勢は、ケダカ軍の士気をさらに高める効果を発揮していた。
彼らは折に触れて、これからやって来るであろうダオラ軍に対して、徹底的に抗戦するのだという姿勢を示すために、水平線に向かって勝鬨を上げ続けた。
ダオラ軍は徐々に明らかになってきた敵の陣容を見て驚愕した。彼らは沖に控えているのがアガルタの軍船であることがどうしても信じられず、危険を承知で小舟をだして、アガルタ軍の存在を確認したほどだった。
「アガルタ軍が参戦しているとは、誠か!」
皇帝ガノブは激高していた。可能性のまるでないことが起こっていた。ケダカ王国国王ビオンに散々無礼な振る舞いを受けていたアガルタが参戦する理由が見当たらなかった。むろん、ケダカがアガルタを動かす力など、あろうはずはなかった。
ガノブは伝令にもう一度よく確認しろと命じた。そのとき、一人の幕僚が口を開いた。
「畏れながら陛下、もし、沖の軍船がアガルタであったとしましたら、どうなさるおつもりでございましょうか」
「どういう意味だ」
「我が軍は、アガルタに攻撃を仕掛けますか」
「何を言っているのだ、アルド。我らはむろん、戦うに決まっておろう。アガルタ軍に我が軍の手並みを見せてやる良い機会ではないか。もし、我らがアガルタ軍に痛打を与えることができれば、我が国の国威向上にもつながり、ひいては、ヴィエイユ教皇聖下の信頼を得ることにもつながる……」
「うるさい」
アルドを嗜めていた師団長の言葉を、皇帝ガノブが遮った。彼は苛立ちを隠そうともせず、足を小刻みに動かしながら、小さな声で呟く。
「少し、黙れ」
その声に、幕僚たちは静まり返った。
しばらくすると物見が戻ってきた。幕僚の一人が直にその任についていた。
「陛下、ただ今戻りました。沖に停泊している軍船は、アガルタ軍に間違いございません。帆に国の紋章がなく確認するのに時間を要しましたが、乗船していた兵士たちは全員黒い鎧を装備しておりました。加えて、海上であるにもかかわらず、軍船はまるで図ったように等間隔に並んでおりました。これだけの練度の高い軍勢を擁するのは、アガルタ以外に考えられません」
皇帝ガノブはチラリと幕僚に視線を向けた。それは皮肉か、という言葉を飲み込んでいた。彼は遠くに視線を泳がせて、心を落ち着けようと試みた。だが、そのとき幕僚の一人が口を開く。
「陛下、目の前のケダカ軍に攻撃を仕掛けましょう。ケダカの者どもを斬って斬って斬りまくり、しかる後、一気に退くのです」
「カルキ殿、気持ちはわからなくはない。ここまで来てから手ぶらで帰ることはできぬという思いはわかる。だが、我らが攻撃を加えているその間に、アガルタが動けば我らは袋のネズミとなる。このまま撤退するのが一番の得策だ」
口を開いている幕僚に向かって、アルドが再び口を開く。
「いや、カルキ殿の作戦にも一理あるやもしれません」
「アルド!」
「アガルタには果たして、我々と戦う意思はあるのでしょうか。ケダカに、また、その周辺国に、ひょっとしたら、ヒーデータに頼まれてイヤイヤのなれ合い出陣かもしれません。そうであればアガルタが動く可能性は低い。さすがに我らがケダカの奥深くまで攻め込めば、アガルタも動く可能性はあるでしょうが、我らがケダカに一撃を加えて撤退する程度であれば、アガルタは動かぬと存じます」
「あーっ! あれをご覧ください!」
兵士の一人が頓狂な声を上げる。通常であれば皇帝の耳を汚したとして、不敬罪の対象となる行為だが、兵士の顔色を見て、幕僚たちは思わず立ち上がった。
そこには、南の方向から夥しい軍船が近づいてきているのが見えた。マストの上で望遠鏡を覗いている兵士が大声で叫んだ。
「西の方向に軍船―! サンダンジ……サンダンジ王国軍ー! 西の軍船は、サンダンジ王国軍―!」
「サ……サンダンジ王国軍!? 何故だ! ケダカとサンダンジは国交を断絶したのではなかったのか!」
「さらにー! さらにー! 西側に軍船ー! 西側に軍船ー! 軍船は……フラディメ王国―! 西にフラディメ王国の軍船―!」
兵士の大声が響き渡る。幕僚たちの顔が青ざめていく。その様子を冷静に観察していた乞うてガノブはゆっくりと立ち上がり、水平線の彼方に視線を泳がせる。
完全に視認することはできないが、確かに南と北西に船が蠢いているのが見えた。
「……こうなってはもはや衆寡敵せず。戦にならぬわ。一気に退く。すぐに撤退の準備をせよ!」
ガノブはそう言ってぶ然とした表情を浮かべながら席を立った。
「無念……ケダカを目の前にして撤退とは……」
幕僚の一人がまるで、吐き捨てるようにつぶやく。その彼の背中を、同僚の幕僚がポンと叩いた。それが合図であったかのように、幕僚たちは大急ぎで撤退の準備に入った。
同様に、皇帝ガノブの後姿には悔しさと寂しさが滲み出ていた。その様子を見ていたアルドは、自らの感情に流されずに冷静な判断を下した主君に、改めて尊敬の念を抱いた……。




