第八百三十六話 二枚落ち
シュリは眼を見開いて固まっている。それほど、この青年の発した言葉が、全く想定外だったのだ。
「バ、バーサーム・ダーケ・リノス……? そう、言われたか?」
「はい。アガルタの、バーサーム・ダーケ・リノスです」
「あの……アガルタ王、か……」
「さっきからそう言っているじゃないか」
メインティア王が笑みを浮かべながら口を開く。そんな彼をリノスは苦々しい顔つきを浮かべながら振り返る。
「我々が突然現れたから戸惑っているんだ。そんなことを言うもんじゃないよ」
その言葉に、メインティア王は申し訳なかったと言わんばかりに、首をすくめた。リノスは再びシュリに向き直ると、落ち着いた声で話しかけた。
「おそらく森の魔物たちは、こちらから手を出さない限り襲ってくることはないでしょう。軍勢を撤退させて大丈夫です」
「ハ……ハハッ!」
シュリはブルブルと体を震わせると、数歩後ずさりして、そのままペタリと座り込み、両手を天高く上げたかと思うと、そのままゆっくりと平伏した。その彼の様子を兵士たちは呆然と見守っていたが、彼が平伏するや、馬に乗った者は下馬し、兵士たちは持っていた槍などを地面に置いてシュリの後に続くように片膝をついて頭を垂れた。その様子にリノスは慌てたような表情を浮かべる。
「いやいや、そんなことはやめてください。どうぞみなさん、顔をお上げください」
「ま、まさか、アガルタ王が我が国においであそばしているとは知らず、無礼な振る舞い、ナト・シュリ、心よりお詫びを申し上げる」
「いや、別に無礼な振る舞いなどされていませんから。俺は全くそんなことは感じていませんから」
「畏れながら、総司令官殿は以前からアガルタ王にあこがれておいでなのです」
畏まっている兵士の一人が口を開く。彼は傍で地面を頭にすりつけるようにして平伏しているシュリに優しい眼差しを泣けかけた。
「総司令官殿は、アガルタ王様の戦いを手本にしておいでなのです。とりわけ、先のミトス王国との戦いは、今回の魔物たちとの戦いの手本と致しておるほどでございます」
「へ……そうなのですか」
「はい。アガルタ軍がセーファンド帝国軍を攻められたとき、盾部隊を先頭にお攻めになったかと記憶しております。その盾部隊は、全く隙間を作らず、しかも、盾を揃えて突撃していったと聞き及びます」
「ああ、そうそう。盾と盾の間に隙間があると、そこが隙になります。槍で攻撃されるでしょうし、大きな丸太などで突っ込んでこられると、どれだけ精強な兵士を揃えても、崩壊してしまいます。ですから、アガルタではその訓練は繰り返し行っていますね」
「やはりそうでしたか。あ、申し遅れました。私はシュリ総司令官の副官を勤めます、チヤ、と申します。我らはアガルタの戦いを参考に、盾部隊の訓練に力を入れております。今回の騒動で魔物たちから領土を守れたのも偏に、この盾部隊の防御があったればこそでございます。おい」
チヤが後ろに控える兵士に合図を送ると、盾を持った兵士たちが一斉に立ち上がった。そして、司令官と思われる男を先頭に、一糸乱れぬ動きで川べりまで移動した。男が合図をすると、兵士たちは一斉に盾を構えた。
「……見事だ」
思わずリノスは呟く。まるで、アガルタのそれと何の遜色もない出来栄えだったからだ。チヤは満足そうに頷いた。
「お褒めの言葉を預かり、恐悦至極でございます」
「これならば、オークたちが襲ってきたとしても十分に食い止められますね。その盾の後ろから弓隊や魔術師たちが攻撃を仕掛ければ、魔物たちは近づくことすら出来ないでしょう」
「アガルタ王のお褒めにあずかり、このシュリ、感激でございますぅ」
老司令官は泣いていた。鼻をすすりながら、何度も涙を拭っていた。そんな彼をリノスは困ったなといった表情で眺めている。
「国王様ぁ!」
突然男の絶叫が響き渡った。驚いて見ると、四名の騎馬武者が下馬しようとしているところだった。彼らは小走りにビオンの許に向かうと、彼を取り囲むようにして片膝とついて畏まった。
そこにいた全員が、ビオンの一団に注目した。彼らはやがて立ち上がると、ゆっくりとリノスらのいる場所に向かって歩いてきた。
ビオンは、リノスの存在などまるで眼中にないかの如く、彼の傍を通り過ぎ、シュリの前までやって来た。
「引き上げじゃ。そなたらのことは、追って沙汰をする」
「国王様ぁ、お言葉ですが、何か、忘れてはいませんか?」
「……」
「そちらにおいでのアガルタ王様に、お礼を述べてくだされ」
「……」
「国王様も聞かれましたな。アガルタ王様がオークキングを説得していただいたことを。さらに、森に結界を張り、国王様が森に火を放とうとしたことを止めていただいた……。もしあれが森の中に入っておったら、再び森は騒動を起こしたでしょう。そのときは、今回のようなものではなく、もっと大きな規模の……」
「黙れ。そのようなことは後じゃ」
「いいえ、なりません。今、ここで礼を述べてくだされ。アガルタ王様はこの国を救ってくれたんじゃ。その国の恩人に対して、国主たるあなたが礼を述べるのは当然のことじゃ!」
「そうしたことは、このような草原で述べることではない! しかるべく使者を遣わし、その上で……」
「そんなまどろっこしいことをしていたら、礼一ついうのに何年かかるのだろうね」
ビオンの言葉をメインティア王が遮る。ビオンは殺意を含んだ眼差しでメインティア王を睨みつける。
「たかが礼一ついうのに、何をそんなに勿体ぶる必要があるのか、私にはわからないね。ケダカ王国というのは変わった国だね」
「我が国は、貴国とは違う。我が国には、我が国のやり方がある」
「クックック」
メインティア王は笑いをこらえるかのような仕草をした。それは、完全にビオンをバカにした振る舞いであることは、誰の目にも明らかだった。
「やめなさいよ。一歩間違えたら、フラディメとケダカとの間で戦争になるでしょうが」
「フラディメとケダカ、ではなく、ケダカとフラディメ、である。ここはケダカ王国である」
「そこ?」
リノスは呆れたような表情を浮かべ、両目を天に向けた。その様子を見て、メインティア王は二人に背中を見せると、大声を上げて笑い出した。
「引き上げるぞ! 準備をせよ!」
ビオンは兵士たちに向き直ると、大声でそう命じた。そして、正座をしているシュリに視線を向けると、憎しみを込めた目で睨みつけた。
「シュリ、貴様の総司令官の任は解く。そして、死罪を申し付ける。もし、騎士としての誇りがまだあるのであれば、今ここで命を絶て」
「それは……できませんな」
ビオンは大きく息を吐き出すと、再びリノスに視線を向けた。
「そう言えばアガルタでは、他国の司令官を自軍の将兵として迎えておるそうな。どうであろうか、この老いぼれをアガルタで預からんか」
「それは願ってもないことですね。ただ……」
「ただ、何であろうか」
「このお方がケダカを去れば、この国は崩壊しますけれど、それでも大丈夫でしょうか」
「……どういう意味であるかな?」
「見たところ、この方はこのケダカ軍の飛車角……。それを失うと二枚落ちになりますが、そうなると、今以上に厳しい局面に立つことになります。このシュリさんはこの国のまさに、柱石であるように見受けられます。この方がこの国を去ると、この方に付いて行く方が後を絶たないでしょう。アガルタとしてはケダカ王国の優秀な司令官が丸ごと取り入れられるので、願ったり叶ったりのことですけれど、ケダカ王国のことを考えると、素直にありがとうとは言えませんね」
「いい加減にせんか!」
シュリはそう言うと、ゆっくりと立ち上がった……。




