第八百三十四話 一心不乱
翌日の夜更け、ビオンは親衛隊の四人と共に王宮を出発した。
「国王様、どちらへ!」
ビオンの背中越しに、門番の絶叫にも似た声が聞こえた。彼は振り返ることなく一言、遠乗りじゃと呟くと、愛馬に鞭を当てた。その後ろを親衛隊が付き従った。
ビオンが王宮を出たことは、程なくして宰相マガタの許に伝えられた。彼はその報を聞くと驚いた表情を浮かべながら立ち上がった。
「遠乗り!? この深夜にか。どちらに向かわれたのだ」
彼はビオンが向かった先が、ムーブの森の方角であることを知ると、悔しそうな表情を浮かべた。
「シュリ殿の許に急使を立てよ。……いや、それでは遅い。緊急信号を送れ。国王様の乗るレンシルはすこぶる足が速い。急げ、急ぐのだ!」
普段は温厚な宰相が滅多に見せない狼狽えた姿に、兵士は体を震わせながら一礼した。
誰もいなくなった執務室で一人、マガタは、まるで崩れ落ちるようにして椅子に腰かけた。国王様はどうしてこうも次から次へと問題を起こすのだろうか。昨夜も昨夜で、皇后さまに乱暴を働いただけでなく、その侍女を手籠めにしようとした。皇后エレナは女官を通じてこの国を出て実家に帰ると通達してきた。それはそうだろう。彼女は実家であるラフトス帝国とこの国の和平のために嫁いできた。その彼女を国王様は蔑ろにしたのだ。それはつまるところ、ラフトス帝国に喧嘩を売ったことになる。しかも、国王様が手籠めにしようとした女官は、皇后が実家から連れてきた者で、彼女が子供の頃から近習として仕えてきた女性であり、皇后が最も信頼する者の一人だった。しかも彼女はすでに結婚が決まっていた。国王様との一件が表に出れば、彼女の結婚も破談になる可能性が高く、もしそうなれば、あの女官は命を絶つ可能性すらあった。それでなくとも心に大きな傷をつけた彼女が今後、どんな行動に出るのかさえわからない状況ですらあった。
皇后エレナは本気だった。実家であるラフトス帝国に使者を立てようとしていたのだ。それをすんでのところで留め、宰相マガタが最も信頼する男である侍従・ヒビを後宮に差し向けて、エレナを何とかなだめすかしているところなのだ。このままエレナを帰しては、間違いなくラフトス帝国はこのケダカに対して敵対する。そうなれば、小麦などの食料が入って来なくなる。主食たる小麦の大半はラフトスに依存しているケダカ王国はまさに、国家存亡の危機に瀕するのだ。
むろん、小麦は他の国から仕入れることができるが、ラフトスからのそれは、ビオンとエレナの婚儀が成ったことを喜んだラフトス王が、ほとんどタダ同然の値段で送ってくれているものだった。そのためにケダカ王国は国家財政に余裕を持たせることができていた。もし、それが入って来ずに、他国から仕入れるとなった場合、この国の財政は遠からず破綻することになるのだ。宰相マガタとしては、ここはどうあっても、エレナに帰国をとどまってもらう外はなかったのだ。
そんな彼の気持ちも知らないで、国王は遠乗りと称して深夜、ムーブの森に向かっている。それは明らかに単なる遠乗りではなく、ムーブの森に何かを仕掛けようと考えていることは明らかだった。せっかくアガルタ王が森の鎮静化のために動いているさなかに、もしまた、騒動が勃発すれば、今度こそ、フラディメもサンダンジもこの国を見限るだろう。しかも、アガルタにも見限られることにもなる。アガルタに見限られれば、それはヒーデータにも見限られることになる。そうなれば、ケダカ王国は全世界から信頼を失うことにもなるのだ。そうなればこの国は亡ぶしかなくなる。宰相マガタには、最悪の状況を迎えたこの国の未来が見えていた。
彼は頭を抱えながら机の上に突っ伏した。正直、これからどのような手を打てばよいのか、彼自身にもわからなかった。気がつくと、無意識のうちに涙が溢れていた。
「……ご先代様。……こっ、国王様」
彼は誰に言うともなくそう呟いた。ご先代様がいらっしゃれば、こんなとき、どんな命令を下すだろうか。いや、そもそもご先代様は、こんな無謀な行動を起こすはずはなかった。
マガタはフッと笑みを漏らす。
「……バカ者、マガタ程の男がわからぬか!」
彼の脳裏に突然、声が響き渡った。ああ、そうだ。懐かしい……。ご先代様が自分を叱責なさるときによく言われた言葉だ。この言葉を聞くと、不思議に頭が冴える感覚を覚えたのだ……。
マガタは大きく息を吐き出すと、椅子に身を預けたまま天を仰いだ。
……今更私がどう動いたところで、国王様の動きは止められまい。あとはシュリ殿に任せる他はない。
宰相マガタは心の中でそう呟くと、静かに寝息を立てて、しばしの眠りに落ちた。
◆ ◆ ◆
夜が白み始めていた。国王ビオンは一心不乱に馬を駆り続けていた。
彼は全身に大汗を描いていた。呼吸が乱れていた。同時に、彼を乗せて走る愛馬の呼吸も大きく乱れていた。もはやこの馬も限界を迎えようとしているのは明らかだった。だが彼はそれでも手綱を緩めることはなかった。
ふと、眼前に大きな川が見えた。コロギ川だ。ということは、この近くに国軍が陣を敷いているはずだ。
ビオンは馬を止めて周囲を見廻す。それらしき影はない。ただ、自分の呼吸音と、馬の呼吸音だけが響いている。
ふと後ろを振り返ってみるが、付いてきているはずの四人の親衛隊の姿はない。落伍したことは明らかだったが、彼らがどこではぐれたのかは、彼自身にもわからなかった。
視線を戻すと、対岸に数人の騎馬武者が見えた。彼らはしばらくこちらを眺めていたが、やがてゆっくりとした足取りでこちらに向かってきた。
「やはり、国王様であらせられましたか」
騎馬武者の一人がそう言って馬を降りて片膝をついた。それに倣って、男に従う者たち全員が馬を降りて片膝をついて頭を垂れた。
「シュリの許に案内せい」
彼らは自分がここにやって来ることを知っていた。ビオンは咄嗟にそう思った。それはある意味で想定された出来事だった。彼は呼吸を整えながら、目の前で畏まっている男たちに視線を向ける。彼らは顔を見合わせると、ビオンにご案内しますと言って、ゆっくりと立ち上がった。
彼らは立ち上がったまま微動だにしないでいる。それはつまり、馬に乗るように促しているのだと解釈したビオンは、後ろを振り返って乗馬しようとする。だが、愛馬は横臥して荒い息を繰り返していた。こんな姿を見たのは初めてだった。ビオンはその様子をしばし見つめていたが、やがて舌打ちをすると、小さな声で呟いた。
「……駄馬が」
そのとき、騎兵の一人が進み出て、愛馬の前に膝をつき、腹を撫で始めた。そして、控えていたもう一人の騎兵が空いている馬の轡を取ってビオンの前まで連れてきた。
何とも恥ずかしい思いに囚われた。無意識にやってしまったこととはいえ、さすがにそれは王の言うセリフではなかった。ビオンは用意された馬に跨ると、その場をそそくさと離れるようにして馬を進めた。
騎兵たちはすぐに追いついてきて、ビオンを案内した。川を渡り、丘に上がると、眼前に広大な森が広がり、その前には国軍が犇めいているのが見えた。
「国王様ぁ、いかがなされた」
陣に着くと、まるで待っていたかのようにシュリが現れた。いつもは不敵な笑みを浮かべて現れる彼が、このときばかりはそれはなく、眉間に皺を刻んだ、緊迫した表情を浮かべていた。ビオンはその顔を睨みながら、ゆっくりと馬を降りた。




