第八百三十一話 アイ・ラヴ・ユー、OK
「ああん?」
俺はオークキングを睨みつける。それは、どういう意味だ?
「うふっ、フフフフフ」
ソレイユが笑い声を上げる。今まで見たことのない表情だ。何とも可愛らしい。
「私を、どうするつもりですか?」
「……決まっている。俺の女にするのだと言っているでありますー」
「はあ?」
思わず声を上げる。ある程度の知性があると思っていたが、それは俺の見込み違いだったようだ。夫のいる前でその妻を寄こせとは、なかなか過激なことを言ってのける。コイツは全く俺にビビっていないということだ。舐められたものだ。
「オークはときとして、人間の女性を襲うことがあるでありますー」
ゴンが申し訳なさそうな表情で呟く。そんな顔をするな。お前が悪いんじゃない。それに俺はソレイユをこんな魔物に渡すつもりはさらさらない。それはおそらく、ソレイユも同じ気持ちだろう。
大体、こんな大柄な魔物がソレイユを襲えるものだろうか。まあ、相撲取りでも大丈夫な方法があるらしいので、それを使えばできないことはないのだろうが、それでも、ソレイユの体では無理があるだろう。
オークキングに視線を向ける。興奮しているのか、鼻息が荒く、体が赤くなっている。これは……戦いになりそうだ。
俺は覚悟を決める。このオークキングを倒し、襲って来るであろうオークどもを皆殺しにする。もはや話し合いでどうなるレベルではない。
そのとき、ソレイユがさらに俺の腕に絡みついてきた。彼女は相変わらず可愛らしい笑みを浮かべている。
「私、イヤだわ。あなたとじゃ、イヤ」
まるでオークキングをバカにしたような言い方だ。ゴンが通訳するのを躊躇している。だが、オークキングは雰囲気で彼女の言葉の意味を理解したようだ。
「……その女を置いていくのであれば、ご主人と吾輩は無事に帰すと言っているでありますー」
「無理だな。話にならん。ソレイユも嫌がっている」
「……ええと、どう言えばよいでありますかー」
「私が絶対にイヤだと言っていると言えばいいわ」
そう言ってソレイユが頷く。ゴンはその通り通訳したらしい、オークキングの体が真っ赤に染まり、彼はガバッと立ち上がった。
「女を置いていかなければ、お前たちは皆殺しだと言っているでありますー」
「……やっぱりこの魔物、キライだわ。私たちに攻撃を加えたら最後、この集落に住むオークは全員殺されてしまうというのに、それすらわからないのね」
「いや、別に皆殺しとは……」
「アラ、襲ってきたら倒さなくてはならないですよね? そうであれば、この集落のオークは一匹残らず殺されてしまいますわ。リノス様もそのお覚悟を固められていたのではないですか?」
「……まあ、ね」
「ウフフ。そういうリノス様が、私は大好きです」
ソレイユはそう言うと、仁王立ちしているオークキングに視線を向けた。まさに、天を衝く大男とはこの魔物のことを言うのだろう。俺たちが座っているせいもあるが、本当にデカイ。
「私は強い男が好きなのです。あなたとリノス様……比べる対象にすらならないわ。本当に強い男は一目見て、リノス様の強さを見抜くものです。この私ですら、このお方は他の方と違うとわかったのに、あなたはそれすらわからなかった。そんなお方に私は、興味はありません」
「あの……相手にはどう伝えればよいでありますか……」
「キライだと言ってやればいいのよ」
「ええ~」
ゴンがドン引きしている。それはそうだろう。それを言えば間違いなくオークキングは怒る。そして、戦いになる。ゴンは穏便にコトを納めたいらしい。
「んんん、もう。自分でやるわ」
じれたソレイユがそう言うと、彼女は目を閉じてブツブツと何かを唱え始めた。どうやら詠唱をしているらしい。程なくして、彼女の体から金色の筋がいくつも立ち昇った。これは……俺の知っている者の気配だ。もしかして、神龍様を呼び出すのか?
「グッ、グォォォォォ……」
オークキングが何とも言えぬ呻き声を上げている。見ると少し狼狽えているように見える。
「おバカなあなたにもわかるでしょ? この私を自分のものにしたかったら、力づくでいらっしゃい。リノス様を倒し、そして、私をねじ伏せるの。でも、できないでしょ? 今の私の力が、どれほどあなたと違うのか、わかるわよね? 私程度の者をねじ伏せられない者が、リノス様に太刀打ちできるわけはないでしょう? さあ、大人しくしなさい。この森で大人しく暮らしていくことを約束すれば、私たちはこのまま引き上げます。どうかしら?」
ソレイユが勝ち誇った表情を浮かべている。それは嫌味な点が一つもない表情だった。うん、好きな人は好きな表情だ。
ふと見ると、ゴンがオークキングに向かって何やら、一生懸命語りかけている。どうやら、今のソレイユの言葉を通訳しているようだ。
確かに、ソレイユから発せられる気配が尋常なものではない。彼女に触れでもしたら、一瞬で炭になってしまうような雰囲気なのだ。まあ、それが本当なら、彼女に腕を組まれている俺はかなりのダメージを食らっていることになるのだが。
ただ、俺にはわかる。この気配は、ソレイユがある程度本気を出してきていることが。何とか俺の結界で防ぐことのできるレベルだ。とはいえ、大抵の魔物ではソレイユに触れることさえできないレベルではあるのだが。彼女と同等に戦えるのは、シャリオら黒龍クラス、いわゆるS級ランクの魔物くらいだろう。
さすがのオークキングもその凄まじい圧力に慄いている。むろん、俺たちを取り囲んでいるオークらもしかりだ。中には尻もちをついている者さえいる。
「このまま引き取ってもらって結構だ、と言っているでありますー。人間をみだりに襲わないとも言っているでありますー」
ゴンが頓狂な声を上げた。どうやらわかってくれたみたいだ。全く、世話を焼かせやがって。
オークキングは天を仰ぎながらゆっくりと息を吐き出すと、ドスンと、尻もちをつくような格好で腰を下ろした。少し地面が揺れた気がした。その様子をソレイユは満足げに眺めている。
「オークキングが、その女はお前の妻かと聞いているでありますー」
「ああ。羨ましいだろう」
「……羨ましい。そんな美しい女性を妻にしているご主人が羨ましいと言っているでありますー」
「アーラ、可愛いところもあるのね」
そう言ってソレイユはオークキングに向かってウインクを投げた。ふと見上げると、俺たちの真上に見事な満月が現れていた。美しい月だ。まるで、吸い寄せられるんじゃないかと錯覚するほどの、冴え渡った月だった。きっと、あのメインティア王も森の外でこの月を眺めていることだろう。あのバカ殿は、この月を見て、どんな感想を述べるのだろうか……。
ふと、森の外で待っているメインティア王のことが気になった。確かあのバカ殿は、夜が明けるとアリスン城に帰ると言っていたな。ということは、夜が明けてしまえば、俺たちは置いてけぼりを食らわされるということだ。早く帰らねばならない。
「じゃあまあ、話はまとまったようだし、帰るか」
「ええ、そうですね。……月がとってもきれいですわね」
「……死んでもいいな」
「どういう意味です?」
「……いや、こっちの話だ。気にしないでくれ」
「あの~。オークキングも同じことを言っているでありますー。今夜は殊更月がきれいだ、と」
見と、オークキングも天を仰いでいる。気持ちを静めているのか、何度も深呼吸をしている。そんな彼を見て、ソレイユはゆっくりと口を開いた。
「手が届かないから、キレイなのですよ」




