第八百二十八話 割かし、責任重大
ゴンは俺とムーブの森に行くことを嫌がった。おひいさまの眷属を辞めると言って聞かなかったのだ。まあ、それはいつものことなので、しばらく経てばコロッといつもの彼に戻るだろうと思っていたが、三日経ってもそれは直らす、四日目にはついに荷物をまとめ始めた。
「お世話になったであります」
夕食後、彼はそう言って家族の前で頭を下げた。思わぬ話に皆、キョトンとした表情を浮かべている。
「……誰も、止めぬのでありますかー」
ゴンは悲しそうな顔をした。止めるも止めないも、突然のことで、皆、呆気にとられているのだ。
「ご苦労様でした」
そんな中、口を開いたのはソレイユだった。彼女は愛嬌のある笑みをたたえながらゴンを眺めている。
「出て行く、というのであれば、あなたの意思を尊重します。でも、本当にそれでよいのですか? ただのキツネになってこの、厳しい世界で生きていく覚悟はあるの?」
「う……」
ゴンは思い出していた。白狐になるまでの、野生にいた頃のことを。決して楽な生活ではなかった。そして、二百年の時を経て、ようやく白狐になれたときの喜びを嚙みしめたときのことを思い出していた。
「リノス様をはじめ、私たちはあなたがこの家にいてくれることに、何の不都合を感じてはいません。むしろ、いてくれた方がいいと思っています。しかし、あなたが出て行く、というのであれば、私たちは止めません。この家にいるのかいないのかは、あなたが決めることです」
ゴンは無言のまま項垂れる。その様子を見て俺はソレイユを、意外に喧嘩が強いんだなと思った。
「三日後、俺はムーブの森に向かう。ついてはゴン、お前に魔物たちの通訳を頼みたい。どうだ」
俺の言葉に、ゴンはゆっくりと頷いた。それと同時に、家族の皆が一気に息を吐き出した。全員、息を詰めて事の成り行きを見守っていたのだ。ゴンが出て行くのを止めたことを知って、一安心といったところだ。
「リノス様、ムーブの森には、私もお連れください」
出し抜けにソレイユが口を開く。これも予想していなかったことなので、俺は驚きの表情を彼女に向けた。
「私をお連れくだされば、魔物たちの動きも大人しくなるでしょうし、オークキングとのお話しも円滑に進むと思います」
そう言って彼女は胸を張った。リコが何かを言おうとしている。ふと見ると、その隣に座っていたシディーが大きく頷いている。いつもの彼女の直感が大丈夫だと言っているのだろう。その様子を見たリコが言葉を飲み込んだ。マトカルは……いつもと変わらぬ表情だ。メイはどうしてよいのかわからないと言った表情だ。
「じゃあ、ソレイユ。一緒に来てくれるかな?」
俺の言葉に、彼女は笑顔で頷いた。
◆ ◆ ◆
そして三日後、俺とゴン、そしてソレイユはムーブの森の入り口に立っていた。
森には、フラディメから入ることにした。理由は三つあって、一つが大上王が何としてもフラディメから入ることを主張して譲らなかったことと、フラディメには一応、ムーブの森の地図があることと、そして最後は、単純にアリスン城からムーブの森までの距離が近かったからだ。
ニケのサンダンジからも行けないことはなく、ニケも一応はサンダンジから入ることを提案したのだが、サンダンジは砂漠を超えて行かねばならないし、かなりの時間がかかってしまう。まあ、イリモの翼を使えば一日あれば行けてしまうのだが、最終的に大上王の勢いに押されてしまった形となった。
ケダカ王国のビオンは結局、特に俺たちに何も言わないまま帰途に就いた。その一方で、宰相のマガタは、何度も何度も俺たちに礼を言っていた。ビオン国王は、この宰相の柔らかい物腰とものの言い方を少しは学んだ方がいいんじゃないかと思ったが、もちろんそれは口には出さなかった。
リボーン大上王は、俺たちをムーブの森に送るにあたり、完全武装の三千の兵士を揃えていた。その兵士たちに守られながら馬車で送られたのだが、何故かそこにメインティア王も乗り込んできた。この国の国主として兵士を指揮して俺を守るのだと言っていたが、それは表向きの話で、内実は大上王から無理やり送るように言われたからであることは明らかだった。ただ、こうした軍事的な事柄は極端に嫌う男が、大上王の命令とはいえよく承知したなと思っていると、彼は馬車が走り出すや否や、嬉しそうに話を始めた。
「いや、大成功だった。さすがはアガルタ王だね」
馬車の中には俺とソレイユしかいない。あ、ゴンは俺の膝の上にいる。彼はソレイユがいるにもかかわらず、饒舌に語り出した。
「ビオン王の侍女だけれどもね、名前はセネ、と言うんだ。私がじっと彼女を見つめて眼が合うと、ニコリと微笑む……。そうすると彼女は顔を赤らめながら私に視線を向けるんだ。そのとき思ったね。これは脈があるなと。それで彼女を私の部屋に呼んだんだ。ビオン王に伝えてもらいたいことがあると、ね。彼女は私の部屋にやって来たんだ。そうなればあとは簡単な話だ。やさしく彼女の美しさを褒めて愛を確かめ合う……。いや、すばらしい女性だった。久しぶりに心が高ぶったよ。いや、君には本当に感謝するよ」
……冗談だろう、という言葉を飲み込む。国王付きの侍女に手を付けた……。一歩間違えば戦争の口実になるような話だ。それに、こう言っては何だが、あんなにふくよかな女性をやっつけたというのか。この王はある意味ではメンタル最強という称号を与えていいのかもしれない。
ドン引きする俺の隣で、ソレイユは、それは素晴らしいですね、などと言って相槌を打っている。こう言っては何だが、ソレイユが至近距離で正面に座っているのだ。大抵の男は挙動不審になるのだが、この王は全くそうした様子は見られない。察するに、本当にソレイユに興味がないのだろう。この王のB専ぶりは、筋金入りだ。
ちなみに、ソレイユの衣装は、白い布を体に巻き付けたようなデザインだ。胸などの大事な部分は布を厚くしているのだが、彼女は当然ながらノーパンノーブラだ。光の加減によっては、胸の形が完全に見えてしまうこともある。そのために、よく訓練されているフラディメの兵士も、目で彼女の姿を追っているのがよくわかる。そんな様子にソレイユは満足感を得ているのだが、今、目の前に自分に全く興味を示さない男が座っている状況は、彼女にとってはどうなのだろうか。
そんな俺の心配をよそに、二人は恋バナで盛り上がっている。そのとき、スッとソレイユが足を組んだ。チャイナドレスのようにスカートの両脇にスリットが入っているので、真っ白な太ももが露わになる。思わず俺は視線を逸らせるが、メインティア王は全く気にもしていない。
「そういえば、俺たちがムーブの森に入った後は、あなたはどうなさるおつもりで?」
雰囲気を変えようと別の話題を振る。メインティア王は不思議そうな表情を浮かべた。
「すぐにアリスン城に戻られるのですか?」
「いや、君たちが出てくるまで森の外で待機する予定だ。あのビオン王の懸念が全く的外れなものだと証明しなければならないからね」
「いや、俺の交渉が上手くいく確率は……」
「いや、うまくいくさ」
「そんな根拠もないのに……」
「君なら大丈夫さ。父上もニケ王も全幅の信頼を置いている。いままで不可能を可能にしてきたじゃないか。これまでの事柄と比べれば、簡単な仕事じゃないか」
「そんなことはないですよ」
「随分謙遜するんだね。フフフ。帰国する日のビオン王の顔を見たかい? ものすごい顔をしていたよね、クックック。隣の宰相に、ムーブの森からの魔物の襲撃に備えろと急使を立てさせていたよね。それが無駄であること、ひいては、彼の考える方向性が間違っていると気付かせるのにちょうどいいじゃないか。それがわかっているから、あの宰相も何も言わなかったんだ。この交渉は、あのケダカ王国の未来も変えることになる。しっかりとやっておくれよ」
「……何を言ってやがんだ」
俺は思わず天を仰いだ……。




