第八百十六話 襲撃
パチパチと篝火が焚かれる音が響いている。聞こえてくる音といえばそのくらいだ。闇と共に静寂が訪れていた。そして、気温が急激に下がってきているのを感じる。国王ビオンは、兵士たちに命じてこの砦の周囲に篝火を焚かせたことに満足していた。火が燃えている間は、兵士たちも凍えることはない。彼らはこの炎で暖を取り続ければよいのだ。
ビオンはゆっくりと天を仰ぐ。空には満天の星空が広がっている。いつも見ている星だが、空気が澄んでいるためか、いつもより大きく見える気がする。何とも美しい景色だ。
息を吐き出しながら、視線を篝火に向ける。ゆらゆらと炎が勢いよく立ち上がっている。彼はぼんやりと剣の柄に己の肘を当てながらそれを見つめていた。
……癒されていた。これは王宮では絶対に味わえぬ感覚だ。ビオンはぼんやりと、この森の中に、いや、この砦を自らの別荘にしてもよいかもしれぬと、漠然と考えていた。
そのとき、ピィーという甲高い音が聞こえた。まるで、鳥の嘶きのような音……。国王ビオンは我に帰った。
一体何の音だ……。漆黒の闇の森に視線を向けたその瞬間、彼は頭に衝撃を感じた。思わずたたらを踏んで倒れ込む。と同時に、近くにあった篝火が、まるで弾けるようにして消えた。
「伏せろ!」
誰かの声が聞こえた。周囲からは兵士たちの呻き声が聞こえてきていた。
……一体何が起こったのか。国王ビオンは頭に鈍痛を感じながら現状を把握しようとする。
「結界師! 結界師ィ! 国王様をお守りしろ!」
この声はマキだ。すぐさまカイ、レンの二人の結界師がピタリとビオンの体にくっつく。二人は同時に詠唱を始めた。
「国王様、結界を張りましたので、もう大丈夫です」
カイはビオンに肩を貸しながら口を開く。先ほどの衝撃は一体何なのかと頭に手をやると、ぬめりとした感覚を覚えた。
「ライトを。誰ぞライトを」
国王ビオンが命じると、程なくして魔法使いによってライトが照らされる。彼らの周囲には、夥しい数の丸太が散らばっていた。そしてビオンは自らの右手を見てギョッとした。そこには血がベッタリと付いていた。
おそらくこの丸太が飛んできて、それが頭に当たったことは容易に想像できた。だが、一体誰がこんなことを……。そんなことを考えた瞬間、砦が魔物に囲まれていることに気づいた。
砦の外にはすでに倒れ込んでいる兵士も見える。だが、大半の者は戸惑いながらも臨戦態勢を取ろうとしていた。
「……どうやらオークらに囲まれているようです。ただ……まだ完全に包囲されてはいないようです。国王様、退くなら今です」
マキが周囲を見廻しながら進言してくる。オークらは両手に丸太を持っている。彼らは何のためらいもなくその丸太を兵士たちに投げつけた。
「うわっ」
「ギャッ」
兵士たちの呻き声が聞こえる。国王ビオンの体に何か熱いものが流れた。
「応戦せよ!」
「国王様!」
「応戦せよ! 我に続けぇ!」
国王ビオンはマキが止めるのも聞かずに、腰に差していた剣を抜き払って砦から飛び出していった。
「国王様をお止めしろ! カイ、レン、貴様たちは国王様から離れるな! 国王様を森の外にお逃がせするのだ! 国王様を森の外に! 国王様を森の外にお連れするのだ!」
マキは絶叫にも似た声で周囲の者に命じた。
オークらはそれぞれいびつな木の枝を持って襲ってきた。ただやみくもにそれで叩き潰そうとしてきた。戦術も何もありはしなかった。そんなオークを倒すのはいとも簡単なことだった。だが彼らは斬っても斬っても溢れだしてきた。一体何匹のオークがいるのか、全く見当がつかなかった。
「退け! 退けぇ! 森の外に退けぇ!」
程なくしてマキがそう言いながらビオンの許にやって来た。彼はビオンの前に立ち、襲って来るオークを切り倒しながら、退け退けと繰り返していた。
「さ、国王様、退きましょう!」
結界師のカイとレンの言葉に促されるように、彼は森の中に入っていった。
国王の一団は彼を守るようにしながら、オークを切り倒しつつ森の中を進んだ。だが、オークらはすぐに彼らに追いつき、襲ってきた。どうやら森の外に出るための一本道は、オークらによって完全に封鎖されているようだった。仕方なく彼らは森の中の道なき道を進むより仕方がなかった。
漆黒の闇の中を移動するには困難を極めた。敵はオークだけではなかった。折に触れて魔物たちの襲撃にあい、その都度、兵士たちは魔物を切り伏せながら森の中を進まねばならなかった。むろん、国王ビオン自身にも魔物は攻撃してきたが、結界師の張る結界に守られていたため、彼自身は大きな傷を負うことはなかった。
一体どこをどう進んでいるのか、誰もわからなかった。ただでさえ遅い行軍に加えて、オークたちは執拗に攻撃を仕掛けてきた。彼らが逃げるところ逃げるところに、オークらは待ち伏せしていた。その都度、彼の親衛隊が身を挺してオークらと戦った。気がつけば、国王ビオンの周囲には数名を残すのみとなっていた。
「……こ、国王様」
結界師のカイががっくりと片膝をついた。程なくしてレンも膝をつく。どうやら二人の魔力が枯渇したようだ。兵士たちは二人に肩を貸しながら、国王の許に運んだ。
「しばらく休めばまた、結界も張ることができましょう」
兵士のその言葉は、そのまま国王ビオンに向けられたものでもあった。幸い、先ほどからオークの襲撃が止んでいる。ここは一息入れようと、国王を中心に皆が腰を下ろした。
「何名いる?」
「……十四名でございます」
「マキはいかがした」
「……」
「アトベとガサカは」
「……」
「……死んだか」
誰も何も答えようとはしない。国王ビオンは心が締め付けられる思いがしていた。自ら鍛え上げた一千の兵が僅か十四名まで減っているのだ。しかも、一千の兵の中には、幼いころから仕えてくれた、言わば彼にとって竹馬の友とも言える者たちも多くいた。今、目の前にいる者たちの中には、そうした者たちの姿は見えない。皆、国王を守るため、身代わりとなって戦い、死んでいったのだ。
死が近づいているのがわかる。今になって宿老たちの言っていた言葉が胸に刺さる。少なくとも、彼らの話を聞いてさえいれば、こんなことにはならなかったのだ。何とか時間を戻せないか……。などと思ってみるが、そんなことはできないことであるということは、誰よりも自分自身がわかっていた。
……せめてマキの言うことを聞いていれば。
マキは森を出て、シュリたちを待てと言った。まさにその通りだった。しかも彼は、自分の心中を察して言葉を変えて二度、同じことを言ってくれていた。せめて、日が落ちる前に砦を出ていれば、こんなことにはならなかった。
「こ……国王様……」
兵士の一人が怯えにも似た声を上げながら立ち上がる。ふと見ると、オークらが現れていた。彼らは音もなく現われ、いきなり襲って来るという傾向があった。だが、今の彼らはブタのような鳴き声を上げながら、じっとこちらを眺めていた。よく見ると、森の中に鋭く光る眼がいくつも見えた。彼らは確実にこの一団の命を奪おうとしているのがよくわかった。
「ブオッ」
気味の悪い鳴き声を上げながらオークらが動いた。兵士たちは剣を抜き、国王を守ろうと立ち上がった。
しかし、多勢に無勢だ。次々と兵士たちは倒されていく。そんな中、一匹のオークがビオンの目の前に立ち、手に持った丸太を振り上げた。
「ひっ、ひぃぃぃぃ……」
殺される、と心の中で呟いた。その瞬間、強い力で彼は後ろに引かれた。それと同時にオークの丸太は振り下ろされ、空を切った。
「国王様! 生きておいででしたか!」
……助かった。国王ビオンの眼からは、涙が流れていた。