第八百十四話 追いかけっこ
ケダカ王国国王ビオンは、城の馬場にいた。愛馬に跨り、思いに任せて馬を走らせていた。
彼はどちらかと言えば、体を動かすことが好きな男であった。こうやって思いのまま馬を駆っていると、嫌なことがすべて吹き飛んでいくような感覚を覚えるのだった。
「国王様。国王様!」
自分を呼ぶ声がする。せっかくの時間を邪魔されたビオンは軽く舌打ちをする。馬を止めると、小走りに近づいて来る者が見えた。近習を勤めているアラタだ。
「申し上げます。アトベ様とガサカ様が戻っておいでです」
片膝をついて控えているアラタに、国王ビオンは鋭い視線を向けながら口を開く。
「何か言っておったか」
「いいえ、何も……」
ビオンはフンと鼻を鳴らすと、馬首を返して馬を走らせた。
◆ ◆ ◆
自室に戻ると、アトベとガサカが控えていた。その様子をチラリと見ると、ビオンは少し笑みを浮かべた。
「首尾はどうであった? フフフ。言わなくてもわかる。お前たちの顔に書いている。うまくいきませんでした、とな」
そう言って彼はカラカラと笑った。アトベとガサカはさも悔しそうな表情を浮かべながら、身を乗り出すようにしてビオンに語り出した。
「笑い事ではございません国王様。宰相以下、老人たちは全く我々の話に耳を貸そうと致しません。まったくもってヤツらは国王様を蔑ろにしております」
「フフフ、さもありなん。老人たちは父上の遺言に囚われておるからな。ご遺言の叛くのは先王に叛くこと……。その言葉を何度聞いたことであろうな」
国王ビオンはフッフッフと苦笑いをする。ふと見ると、彼の表情はいつしか引き締まったものとなっていた。
「だが、自国の領土がどんどん魔物に浸食されておると言うのに、そのまま何もせぬ、というのは、全くの敗北主義である。そのような了見で、先祖に申し訳が立とうか」
ビオンは目の前に控える二人に、まるで諭すような口ぶりで語りかけた。
「我が国の今があるは、先祖が苦労して国土を切り開かれたからだ。その先祖の血と汗と涙で開いた国土を、あろうことかオークら魔物によって浸食されている。これを国の恥と言わずして何とする。受けた恥は……雪がねばならぬ」
国王ビオンの言葉に、アトベとガサカの二人はゆっくりと頭を下げる。
「そこで、です。国王様」
ガサカが懐から紙を取り出して、机の上に広げた。そこにはジンの砦の周辺地図が描かれていた。彼は砦を指さしながら言葉を続ける。
「斥候からの報告によりますと、現在、ジンの砦にはオークらの姿は見えないとのことでございます。ヤツらは砦を放棄したのです。無人の砦に兵を送って何が悪いことがありましょうか。今すぐ兵を送るべきです」
「うむ。砦はよいとして、その周辺はどうだ?」
「ハッ、落ち着いているとのことでございます」
「国王様」
これまで黙って聞いていたアトベが静かに口を開く。国王ビオンとガサカはアトベに視線を向ける。
「今こそ砦を奪還する好機かと存じます。砦はもぬけの殻なのです。別に国軍を動かす必要はないでしょう。国王様の親衛隊一千で十分でしょう。速やかに砦を占領し、しかる後に砦を難攻不落の要塞とするのです。さすれば、国内の国王様への評価は大きくかわりますし、老人たちの眼も覚まさせることができるかと存じます」
国王ビオンは大きく頷くと、馬を曳けと大きな声で命じた。
◆ ◆ ◆
国王ビオンが親衛隊を連れてジンの砦に向けて出陣したと聞いて、宰相マガタは顔色を変えた。彼はすぐさま国軍に命じて国王の後を追うように命じた。
「愚かな……。砦にオークがいないからと言って、ヤツらが砦を放棄したことにはならぬ。それはあくまで我ら人族の価値観だ。オークらはあの砦を自身のものであると認識している。そこに兵を向けて占領したとなると、ヤツらは必ず蜂起する。我々を縄張りを荒らす侵略者と見なすだろう。急げ、何としても国王様をお止めするのだ!」
宰相の言葉を最後まで聞くことなく、宿老たちは動き出していた。
一方の国王ビオンは、ジンの砦までの最短距離を進んでいた。道なき道に馬を走らせていたため、通常よりもかなり早く距離を稼ぐことができていた。彼はチラリと後ろを振り返りながら、自らが鍛えた親衛隊の出来栄えに満足していた。
率いている一千の親衛隊は、全員が馬に乗っていた。その一千の騎馬隊は、通常ならば通ることのない悪路も、全く問題なく進むことができていた。さらには、川なども飛越するなど、かなりの練度の高さも示していた。
国王ビオンは少し後悔していた。別にこの出陣に後悔していたわけではない。もっと多くの兵士を連れて来るべきだったと考えていた。
宿老・シュリが総司令官を勤める国軍と、自らが鍛え上げた親衛隊の馬術の練度は、天と地ほどの差がある。おそらく国軍の騎馬隊はこのルートを進むことはできない。国軍を、あのシュリの老人を連れてきていれば、彼らは親衛隊の練度に舌を巻くことだろう。そして、そうした兵を訓練することができる国王の手腕に注目することだろう。そうなれば、これまでのような物言いは影をひそめることだろう。何とも惜しいことをしたものだ、と彼は心の中で呟いた。
ジンの砦を陥落させるのは赤子の手をひねるよりたやすいことだ。単に兵を砦に入れるだけでよいのだ。それこそ、子供でもできる芸当だ。それだけに、単に砦を取り戻すだけでは、あの老人どもを黙らせることはできない。まるで風のごとく、まさに疾風怒濤の速さで砦を陥落させてこそ、あの老人たちを黙らせることができるのだ。彼が道なき道を進んで、一刻も早く砦に辿り着こうとしているのは、そうした狙いがあった。
「国王様」
疾駆する彼の隣に馬を進めて来る者がいた。マキだ。近習の一人として使えているが、馬を操る腕前はその中でもピカいちの男だ。王の隣に馬を進めるなど、本来は無礼な行為に当たるが、国王ビオンは全く構うことはなかった。
「何だ、マキ」
「まもなく日が暮れます。この先はムーブの森に差し掛かります。一旦兵を休めて、砦には明朝にはいられてはいかがでしょうか」
「フッ。マキとしたことが。朝まで待っていては、老人どもに追いつかれるわ。このままジンの砦まで進む」
「で、あれば国王様。本日はジンの砦に入られまして、そのまますぐに森を出られませ。砦には我が国の旗を立てれば十分でございましょう。恐らく我らの後はシュリ様が追いかけて来ることでしょう。そのシュリ様と合流して明日砦に向かわれませ」
「いや、砦に入ってそのままとどまる」
「国王様、それは危険……」
「わかっておるわ。砦に入ってしばらく待てば、シュリの老人が追いかけてこよう。我らは砦でシュリら国軍の兵士たちを迎え、しかる後、城に戻ることとする」
「シュリ様は追いかけて来られるでしょうか」
「どういう意味だ」
王の双眸に殺気が宿っているのをマキは見た。彼は咄嗟に言葉を飲み込んだ。
「いえ……。我らは彼らの予想を超える速さで進んでおります。国軍の足では、我らに追いつくのは朝になるかと……」
「フ、フフ、フハハハハハハ!」
国王ビオンは機嫌のよさそうな声で笑うと、愛馬に鞭を当て、さらに速度を上げた。マキはその後ろ姿を見守りながら、強い後悔の念を覚えていた。
……夜になって我らがムーブの森に入ったとなれば、シュリ様たちは森に入ってこない可能性がある。その間に魔物たちに攻撃されたら、我らは袋のネズミになる。
マキは頭を左右に振りながら、そんなことはないと自分に言い聞かせた。だが、その不安は杳として消えることはなかった……。