第八百十一話 マナー
「大帝陛下におかせられましては麗しきご尊顔を拝し、恐悦至極に存じ上げ奉ります」
「うむ、苦しゅうない。ああ、皆の者も苦しゅうないぞ。楽にいたせ」
国王リイジは上機嫌だった。目の前に並んでいるのはいずれも、一国の王たちだった。それらの者が全員、深く首を垂れている。一人一人に視線を向けてみるが、誰もリイジを見ていない。皆、一様に視線を床に向けているのだ。
その彼の前に控えているのは、アガルタ王リノスだ。彼は緊張した面持ちで首を垂れている。
「リンデーズ」
「あの、大帝様……。恐れ入りますが、今の私の名は、バーサーム・ダーケ・リノスでございます」
「存じておるわ」
リイジはカラカラと声を上げて笑う。そして、優しい眼差しを浮かべると、リノスに向かって語りかけた。
「これよりそなたは、元の名であるリンデーズを名乗るがよい。そなたの父と母が付けてくれた名じゃ。それにその名は、余とそなたを繋ぐ名前でもある。ここらで今は絶家となっているラウストの名を復活させるのじゃ。それが、亡き父への供養でもあろがな」
「はっ、承知いたしました。それでは畏れながら、本日ただ今をもって、私は遅々の名跡を継ぎ、ラウスト・ダーケ・リンデーズと名乗らせていただきます」
「うむ。そうせい、そうせい」
「大帝様の深いお情けを頂戴しまして、喜びに堪えません。本日は至らぬ点も多いかとは存じますが、どうぞ、お寛ぎいただければと存じます」
「うむ、苦しゅうない。苦しゅうないぞ」
リイジはそう言って高らかに笑った……。
◆ ◆ ◆
「……」
気がつくとリイジはベッドに横たわっていた。先ほどの光景は一体何だったのだろうか。彼はぼんやりとした頭を働かせようとする。
いつもの自室だ。毎日寝起きしている自室だ。周囲には誰もいない。先ほどの光景は夢だったのか……。
リイジは起き上がると、大きなため息をついた。
一度、現実になるのではないかと期待した夢だ。宰相からはその夢はあきらめろと諭されたが、リイジにとっては、諦めても諦めきれない夢だった。
……いや、世界の王になるという夢が完全に終わったわけではない。あのリンデーズが思い出せば、あるいは。
リイジは決心した。別に口に出すことはしないが、世界の王となる夢は心の中に持ち続けようと。その準備をしておくくらいは、文句はないはずだ。
そんなことを考えながら、では、何を準備すればよいのか。彼の頭の中には、アガルタで面会したあの、リンデーズ夫婦の光景が描き出されていた。
特に目についたのが、あのリコレットという女性だった。その振舞い方や佇まいは、まさに、大国の皇后と言って差し支えなかった。別にあの女性をどうこうしたいという思いはない。むしろ、リイジにとって一番苦手とする女性だ。しかし、あのちょっとした仕草や振る舞いは、リコレットはもちろん、その隣の夫まで、神聖にて犯すべからず存在であると思わせていた。
……余が身に付けるべきはあれじゃな。
リイジは心の中でそう呟いた。そして、ゆっくりと手を二回鳴らした。
「……」
誰も来なかった。それはそうだ。これまで手を鳴らして家来を呼んだことはない。いつもは起きたらすぐに部屋を出て顔を洗う。たまにそれをしないこともあるが、ともかく、朝起きたら部屋を出て着替えの間に向かう。そこに家来が控えていて、着替えを済ませ、朝食となるのだ。だが彼はそれでも、もう一度手を鳴らしてみた。
「お呼びになりました?」
侍女が、ノックもせずに扉を開けて顔をのぞかせた。ペリアだ。もうこの城に仕えて長い。すでに初老に差し掛かろうとしている女性だが、その表情からは、つまらないことをして仕事の邪魔をしないでくれと言った感情がありありと見て取れた。
「……」
手を鳴らして人を呼んでみたが、特に用事はない。さて、どうしようかと考えていると、ペリアは少し怒気を帯びた声でリイジに話しかけた。
「早く着替えちゃってくださいな。朝食もできていますから、早く食べちゃってください」
彼女はそう言うとバタンと扉を閉めた。リイジはゆっくりと首を左右に振った。
これがアガルタであったならばどうだろうか。きっと、美しい女官が現れて、おはようございます国王陛下と恭しく一礼するに違いない。そして、その日の予定を述べ、朝食を運んでくるに違いない。それに比べて今のあの振る舞いは何だ。まるで家人への振る舞いではないか。
以前のリイジであれば、ペリアを怒鳴りつけたことだろう。だが、今の自分は違う。世界の王たらんと決心した自分は、そんな行儀の悪いことをしない。逆に、礼儀を教えてやるのだ。
そんなことを考えながら彼は服を着替え、執務室に向かう。椅子に腰かけるが、特に何もやることがない。しばらくそのままでいると、宰相が慌てた表情を浮かべながら入室してきた。
「何かございましたか、国王様」
何かございましたかと言われたが、特に何もない。朝食を済ませてから執務室に足を運ぶのはかなり久しぶりのことだ。宰相が慌てるのも無理はない。
「相談がある」
「そ、相談!? 何の、でございますか?」
そんなに慌てることだろうか。国王たる自分が宰相に相談することがあっても不思議ではないではないか。そんなことを思いながらリイジは口を開く。
「余も少し、行儀作法を見直そうと思ってな」
宰相ムーラは安心した表情を浮かべる。
「それはよいことかと存じます。で、何の行儀作法を習われるので?」
「何の? 行儀作法に種類があるのか?」
「はい。例えばテーブルマナーであるとか、立ち居振る舞いであるとか……。まずは国王様、いつものガニ股で大股で歩かれるのを直してみてはいかがでしょうか」
「余はそのような歩き方はせぬ」
「……」
「寧ろ、世界の王としての振る舞いを身に付けたい」
「は?」
「いや、王として威厳のある振る舞いを身に付けたいのだ」
「承知しました。では、城下に人を募ってみます」
「うむ、苦しゅうない」
「……」
宰相は何とも言えぬ表情を浮かべながらその場を後にした。
その講師はすぐに見つかった。たまたま訪れていたルワラル王国の使者であるロムロス女史がその役を買って出てくれたのだ。宰相ムーラは早速彼女を国王リイジに紹介した。
「何も難しく考える必要はございませんわ。行儀作法は、習慣でございます。私が基本的なことをお伝えしますので、国王様は毎日それを繰り返すだけでよろしいのですわ」
ロムロス女史はそう言って笑みを見せた。そのさわやかな笑顔に、国王リイジはたちまち心を開いた。
◆ ◆ ◆
「まずは立ち姿です。背中をピンと伸ばします。肩を張ったほうがよろしいですわ」
「こ……こうか?」
リイジは早速そう言って背筋を伸ばす。だが、いつも姿勢の悪い彼がいきなり背筋を伸ばすと、腰や肩に痛みが走る。
「違う! 腰! 腰ィ!」
ロムロスは懐から短い鞭のようなものを取り出して、それで強かにリイジの腰を打った。予想外の痛みに、彼は顔を歪める。
「そ……そのような手荒な……」
「これが一番手っ取り早いのです。痛みがあれば、矯正も早いものです。さ、国王様」
リイジは困惑しながら背筋を伸ばし、肩を張る。
「そうそう。そうでございますわ国王様。その調子です」
「お……おお」
「姿勢は大事でございます。何より健康にもよろしゅうございます。私は仕事柄色々な国にお邪魔しますが、最も姿勢が美しかったのは、クリミアーナ教国のヴィエイユ教皇聖下でございました。国王様にはその美しい姿勢をご伝授申しますわ」
「う……ああ……」
国王リイジは程なくして練習を諦め、いつもの生活に戻った。




