第七百七十九話 押印依頼
ミンズ王国。カンワ大陸を治める国のひとつだ。この国は貧しく、王であるゲル・リイジは治世に対する興味を失いつつあった。政務は専ら、宰相を務めるムーラに任せっきりであった。
この国が国として何とか保っているのは、偏にこの宰相ムーラと忠実な家来たちに支えられているためであった。通常の国では、謀反や反乱が起きてもおかしくない状況であるにもかかわらず、勤勉で実直な宰相の下で、何とかこの国の民は飢えずに済んでいた。
とはいえ、国から取り立てられる税は厳しく、民は生きるか死ぬかのギリギリの生活を余儀なくされていた。
宰相ムーラは元々、低い身分の出身で、国政を預かる地位に上るなど夢のまた夢であった。それを、先王カツエに見いだされ、異例の抜擢を受けて現在の地位に就くことができた。さらには、優秀な者は身分を問わず登用したことにより、多くの者が高い地位に就くことができていた。だが、それが災いして貴族たちの反発を招き、ある者は他国に寝返り、ある者は王に刃を向ける者も現れ、ただでさえ収穫量が少ないこの国の国土は荒れ果てることになった。
そうした者たちを排除し、ようやく国が落ち着いた途端、先王は病に倒れ、その後をリイジが継いだ。彼は幼いころから血で血を洗う内乱の様子を見てきた。そして彼はそうしたことが大嫌いだった。どちらかと言えば、大人しく控えめな男であるリイジは、誰にも邪魔されない静かな生活を望んでいたのだった。
ここ最近のリイジの楽しみは、折に触れて届けられる世界各国の出来事を記した風説書を読むことだった。それを読みながら、頭の中で想像を膨らませることが大好きだった。もし、自分がその主人公であったなら……。そんなことを考えていると、時間を忘れて没頭することができたのだった。
その風説書で、彼の興味を捉えて離さない人物がいた。アガルタの王、リノスだった。奴隷上がりの平民から身を起こし、今や世界最強国と呼ばれる国の王となった男……。自分もそうなってみたい。世界最強国と呼ばれる国の王となり、思うがままの政治を行ってみたい……。風説書を読みながら、彼の想像は留まるところを知らなかった。
この日も彼は風説書に目を通していた。そこに、宰相ムーラが入室してきた。
「国王様」
「……」
書類を持ったまま、無言で目だけをこちらに向けている。これはいつものことだ。
「新しい法令がまとまりました。ご一読の程を」
「よい」
「ご一読いただきまして、問題なければ、承認印を……」
「よいと申すに。承認印ならば知っていよう。そなたが押せばよい」
「そうは参りません。国家の法令を承認できるのは国王様のみでございます。承認印は、国王以外は押せぬ仕来りとなっております」
「後で押しておく。そこに置いておけ」
国王リイジは面倒くさそうに手をヒラヒラさせた。その様子を見ながら宰相ムーラは、今日は機嫌がよさそうだなと心の中で呟いた。
国王が不機嫌なときは、会話も何もない。視線すら合わせない。ただ、沈黙が長く続くのみなのだ。承認印を押すことができるのは、自分以外いないことは百も承知のくせに、敢えてそんなことを言ってくるのは、機嫌がよい証拠であった。宰相は、書類を机に置きながら、言葉を続けた。
「何やら面白いことがございましたか」
「うむ。アガルタがな、またも勝利したぞ」
「左様でございますか」
宰相が大げさに驚いた様子を見せる。アガルタの先の戦いは聞いて知っていた。だが、そのことを言うと王は間違いなく不機嫌になる。ここで王の機嫌を損ねるのは得策ではないことを宰相はよく知っていた。
「ミトスがヒーデータに援軍を要請したが、結局アガルタに返り討ちにされておるわ!」
色々と突っ込みどころのある答えだ。頭の中で情報を色々と補完せねばならないが、こうしたことはよくあることだ。宰相ムーラはにこやかに笑みを浮かべながら口を開く。
「はい。確かこの戦いは、ミトスがカルートレン、ノーノ、エルスモ、セーファンドの軍勢に包囲され、ミトスのレアル王妃が、ご実家であるヒーデータに援軍を要請したのでしたね。ヒーデータはアガルタにも援軍要請を行い、併せて四万の軍勢でミトスを救援しました。ですがこれはミトスの策略で、アガルタを殲滅するのが狙いでした。しかしアガルタは、それらの軍勢を各個撃破し、最終的にミトスの王都であるロークル城の一部を占領したのでした。最終的に、ヒーデータの皇帝陛下の仲介で、それらの国は平和不可侵条約を結ぶことで決着を見たのでした」
宰相の言葉に国王リイジは大きく頷いている。
「何より痛快なのは、アガルタ軍がノーノ、セーファンド軍を駆逐した場面だ。余もその戦場にいたかったぞ!」
その言葉に宰相は笑みを浮かべながら頷く。
「ううむ。アガルタは素晴らしいな。世界最強の軍隊を有しているだけでなく、その地理的条件も整っている。大規模な穀倉地帯を有し、豊富な金山銀山も有している。さらには、従属させているラマロンからは様々な鉱石が献上され、それらはニザに送られて強力な武器となってアガルタに帰ってくる。これでは、強くないわけはない!」
もう何度も聞いた話だが、宰相は笑みを崩さぬまま、大きく頷く。
「対外的にも隙が無い。隣接する国々とは婚姻によって誼を通じていて盤石だ。さらには、フラディメ、ミーダイ、サンダンジとも誼を通じていて、アガルタに攻め寄せるためには、幾多の国を抜かねばならない状況を作り出している。そして何より、クリミアーナだ。あの国を支配下に置いているのが、アガルタを世界最強国たらしめている所以だ」
「その通りでございます。一見するとアガルタの版図はヒーデータと同規模ですが、その影響力は、世界中に及んでいます。徒にあの国と争うべきではありません」
宰相はもうこのくらいでいいだろうと思いつつ、王に押印を促そうとした。だが、国王リイジは、とんでもないことを言い出した。
「我が国もアガルタと誼を通じればよいのではないか?」
「畏れながら国王様、我らには、アガルタと誼を通じるだけの要素がございません」
……できることならとっくにやっている、と宰相は心の中で呟いた。これまでアガルタとは全くと言っていいほど、交流を持っていなかった。今更、手ぶらで誼を通じてくれといったところで、断られるのは目に見えていた。
「何とかできぬのか。例えば、アガルタ王の息女を嫁に迎えられぬか」
「……難しいかと存じます。すでに長女のエリル姫は、ヒーデータ帝国のアローズ皇太子と婚約しているのは広く知られるところ。また、アリリア姫、ピアトリス姫も、おそらくどこかの国の王子と婚姻の話があろうかと存じます」
「我が子息、ワギとの結婚は難しいか」
「はい、残念ながら」
王太子のワギ様はすでに、二十三歳になろうとしていた。アガルタの姫たちとは年の差がありすぎる。ただでさえ馴染みのない国であるミンズ王国に、二十近くも年の離れた男に嫁に出すことなど、誰が考えてもあるはずのないことだった。
「他に方法はないか」
「畏れながら国王様。アガルタと誼を通じるのであれば、まずは我らからアガルタに何かを差し出さねばなりません。ですが、我が国は資源に乏しく、差し出すものがございません。私もアガルタと誼を通じて、技術などの支援を受けたいと考えますが、現状では難しいと言わざるを得ません」
国王リイジはさも残念そうな表情を浮かべた。宰相ムーラは、もうこのくらいでいいだろうと判断して、押印を促そうとしたが、リイジは驚くべき言葉を放った。
「よし、わかった。それでは、我が国は、隣国ヒダに侵攻する!」