第七百七十一話 あり得ないことだらけ
思いがけない話だった。今は戦争の真っ最中だ。総勢十万近い軍勢が犇めいている中で、来客があるなどとは、全く予想すらしていなかった。
自分自身でも、不思議そうな表情を浮かべていることがわかる。レアルは気を取り直して、目の前に控える兵士に向き直る。
「今、客と言いましたか?」
「ハッ」
「どなたです?」
「ヒーデータ帝国からのお使者が参っております」
何とも言えぬ怒りが湧き上がってくるのを感じる。それならばなぜ、使者が来たと言わないのか。この男は確かにお客様がお見えです、と言った。気が動転したのだろうか。だとしたら、この男は兵士として失格だ。兵士たる者は、いついかなる時でも、冷静沈着であらねばならない……。
「先ほど、お客様がお見えですと言いましたね?」
「……は、はい。申しました」
「で、今は、ヒーデータからのお使者が参った。そう言いましたね」
「申しました」
「なぜ、最初からお使者が参りましたと言わないのです」
「そ、それは……」
「私がそう言えと言ったのだよ」
狼狽える兵士の背後から男の声が聞こえた。姿を現したのは、何とヴァイラスだった。
「お、お兄さま!?」
「レアル、あまり兵士をいじめるものではないよ」
ヴァイラスは優しげな笑みを浮かべながら、後ろに控えている兵士に礼を言って、下がるように促した。
彼は部屋の中をゆっくりと見廻すと、よく通る声で口上を述べた。
「ヒーデータ帝国公爵、ヒーデータ・シュア・ヴァイラスと申します。この度は、この戦いの和平の使者として罷り越しました。どうぞ、お見知りおきを」
そう言って彼は優雅に一礼して見せた。
ヴァイラスは従者も伴わずに単身でこのロークル城に乗り込んできていた。その場に居合わせたミトス王国軍の幹部たちは、ただひたすらに驚いていて、声一つ上げることができなかった。そんな彼らを一瞥したヴァイラスは、優しい笑みのまま、レアルに向き直る。
「そういうことだ、レアル。この戦いを終わらせに来た」
「お……お言葉ですがお兄さま。今、我々とお兄様とは敵同士ではありませんか? ヒーデータは、我らの盟友であるカルートレン軍を攻撃したと聞きました。それは、ヒーデータが我々に対して宣戦を布告したことになります……」
「もういい、レアル」
ヴァイラスの顔に憐みの感情が浮かんでいた。
「ミトス王国の策略は、すべて明るみになっている。アガルタ軍をおびき寄せ、ミトス、カルートレン、エルスモ、ノーノ、セーファンドの連合軍でアガルタを、アガルタ王の首を挙げようと画策していたのだろう。だが、ミトスを除くすべての軍勢が壊滅し、あるいは撤退した。もう、ミトスの策略は潰えたのだ。今、このロークル城は、我々ヒーデータとアガルタによって完全に包囲されている。悪いが、ミトスが勝つ可能性は、皆無だ」
……そんなことはやってみなければわからないだろう。レアルは心の中でそう呟いた。セーファンドとエルスモ軍が壊滅したときに、この策略が見破られたであろうことは想定していた。今、この危機を脱するには、ヒーデータとアガルタ軍を駆逐するほかなかった。しかも今、目の前にいる兄は、表向きはヒーデータ軍の総司令官なのだ。この兄を討てば、ヒーデータは瓦解する。グレイジア元帥と連携することができれば、今度こそアガルタを窮地に追い込める。そんな考えが頭をよぎったそのとき、ヴァイラスが衝撃の一言を放った。
「ちなみに、お前が連絡を取っていたグレイジア元帥は、亡くなった」
「何ですって!」
思わず立ち上がって声を上げた。自分でも驚くほどの声が出た。レアルの頭の中が真っ白になっていく。
「私は、ヒーデータ帝国の使者として赴いている。私の言葉は、ヒーデータ帝国皇帝の言葉と思っていただいて結構です」
ヴァイラスはそう言うと、スッと背筋を伸ばした。
「このミトス王国の王妃は、我が妹です。このままミトスと刃を交えるのは、兄妹が刃を交えるのと同じ。私は、それはするべきではないと考えています。そこで、この度の戦いを穏便に済ませたいと考えています」
「じょ、条件を承ろうではないか」
突然口を開いたのは、何と、ミトス国王、カインだった。彼は目を見開きながら、言葉を続ける。
「和平の条件を承ろう!」
「承知しました。しかしながら国王陛下、その条件は決まっておりません。いや、決めていないという方が正しいでしょうか」
「どういうことだ」
「その和平の条件を、これからミトス、ヒーデータ、アガルタの三者で話し合いたいと存じます」
「……」
「場所は、我がヒーデータ帝国の船内を考えております。アガルタ王はこのことに関しては承知なされました」
「お、畏れながら申し上げます」
宰相ムタがたずねた。彼の額には汗が浮かんでいる。
「その場には、アガルタ王おん自らおいでになるのでしょうか」
「はい。その通りです」
「と、なれば、我が方は、全権大使を立てるわけには……」
「いいえ、その点についてはこだわるつもりはありません。ただ、私とレアルは兄妹です。レアルと話をするのが、一番伝わりやすいとは思いますけれど。これはあくまで私の考えですが」
「し……しばらく、お時間をいただきたく、お願いを申し上げます」
「今すぐご回答をいただきたい」
「し、しばらく、しばらくのご猶予を……」
「こう申し上げては何ですが、今、貴国は後宮をアガルタに占領されているのです。一刻も早くこの話をまとめて、後宮を開放することが先決ではないですか?」
「う……」
「もうよい、余が参る!」
国王カインは言った。そこにいた全員が呆気にとられた表情を浮かべている。
「お待ちください、陛下!」
「言うな! 使者殿が言われる通り、今は後宮を開放することこそが一番じゃ。一刻も早くマリアを助け出すのじゃ!」
カインはそう言うと、ヴァイラスに向き直る。
「和平交渉の件、承知した。場所も、ヒーデータの軍船であることも承知した。すぐに支度にかかってもらいたい。一刻も早く、じゃ」
「……承知しました。それでは、今からおいでになりますか? すでに、アガルタ王は我が船に参っております」
「よしわかった、馬を曳け! 馬車を!」
そう言ってカインは城門に向かって歩き出した。その後ろを、宰相ら主だった者たちが追いかけていった。
一人残されたレアルは、呆然自失の表情を浮かべていた。そんな妹を、ヴァイラスは哀れな目で眺めていた。
◆ ◆ ◆
国王カインがロークル城を出発したのは、それから一時間後のことであった。結局、国王の他に、宰相ムタと王妃レアルが従うことになった。レアルの同行は、宰相の希望だった。彼は、彼女のヒーデータとの血のつながりが、この交渉で大きな役割を果たすと踏んでいたのだ。
結局、この三人は、ヴァイラスの馬車に同乗して船に向かっていた。ロークル城で馬車の用意ができなかったためだ。国王カインは、いつまで経っても準備ができないことに腹を立て、周囲の者たちに当たり散らした。それを見かねてヴァイラスが、自分の馬車で向かうことを提案したのだった。
奇妙な光景だった。敵同士が同じ馬車に乗っている。しかも、宰相ムタ以外は全員王族だ。王族でもない自分が同じ馬車に乗るなど、ミトス王国ではあり得ないことだった。しかも、宰相の隣に、ヴァイラスが座っている。今ここで、彼の命を奪うのは簡単のように思えた。そして、それをすれば、ヒーデータ軍は瓦解し、この戦いを有利に進められるのではないかとさえ思った。
だが、彼の本能が、それを止めた。宰相の判断は正しかった。ヴァイラスの乗る馬車はオワラ衆が操っており、何かコトがあると、すぐに彼を救い出す手筈が整っていたのだった。
程なくして、馬車は船に着いた。ヴァイラスは彼らを船内の一室に案内した。
「ようこそ」
「はあっ!?」
レアルはまたもや頓狂な声を上げた。




